足利義晴
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 凡例足利 義晴
足利義晴像(土佐光茂画、1550年
京都市立芸術大学芸術資料館蔵
時代戦国時代
生誕永正8年3月5日1511年4月2日
死没天文19年5月4日1550年5月20日
改名亀王丸→義晴
戒名萬松院曄山道照、万松院殿
墓所義晴地蔵寺
官位従五位下正五位下左馬頭
征夷大将軍従四位下参議
左近衛中将従三位権大納言
右近衛大将、贈従一位左大臣
幕府室町幕府第12代征夷大将軍
(在職:大永元年(1522年) - 天文15年(1546年))
氏族足利将軍家
父母父:足利義澄、母:日野阿子(安養院、日野永俊の娘)?
養父:足利義稙[1]
兄弟義晴、義維、随風[注釈 1]
妻正室:慶寿院近衛尚通の娘)
側室:大舘尚氏(常興)の娘、一色晴具の娘、ほか
義輝義昭周ロ白鳥義久?[2]、娘(武田義統室)、娘(三好義継室)、入江殿(烏丸光宣室)、宝鏡寺理源
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足利 義晴(あしかが よしはる)は、 室町幕府の第12代征夷大将軍(在職:大永元年〈1522年〉 - 天文15年〈1546年〉)[3]。第11代征夷大将軍・足利義澄の長男(または次男)。
生涯
誕生

永正8年(1511年)3月5日、第11代将軍・足利義澄の長男(または次男)として、近江国蒲生郡水茎岡山城で生まれた[4]。幼名は亀王丸(かめおうまる)と名付けられた[4]

母は日野永俊の娘・阿子(安養院)とされ、彼女は日野勝光日野富子の姪にあたる人物である。しかし、永俊の娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して、将軍家で御末(下級の侍女)を務めていた「阿与」という女性が母親であって[5][6][7]、母親の身分が低かったために記録に残されなかったとする説もある。

また、亀王丸には足利義維(幼名は不詳)という兄弟がいた[8]。彼は亀王丸の兄とする説と、あるいは弟とする説がある[8]。ただし、公家の鷲尾隆康が自身の日記『二水記』において、義維を「江州武家舎弟」と記しているように、義晴を兄、義維を弟とするのが当時の人々の認識であった[8]

亀王丸の誕生時、父の義澄は大内義興に擁された前将軍・足利義稙が上洛した煽りを受け、将軍職を解任されており、近江六角高頼を頼って落ち延びていた[9]。そして、同年8月14日に父は帰洛を果たせないまま、同地で死去した。
播磨での生活

誕生直後、亀王丸は義澄派であった播磨守護赤松義村のもとに送られ、その庇護下で養育されることになった(『高代寺日記』『武家昇譜日記』)[8][10]。その理由として、義澄を庇護していた六角高頼が義稙と内通しているとの噂があり、信頼できる赤松氏に預けることが賢明だと判断されたからである[8]

以後、亀王丸は赤松氏の拠点である置塩で育ち、11歳で上京するまで播磨で生活を送ることになった[8]。義村は義澄から託された亀王丸を、慈愛をもって保護し、賢臣の忠を尽くした[11]。また、義村は和歌や書道に秀でており、置塩城のふもとにあった置塩館では、冷泉為広など京都の公家や家人が訪れていた[11]。他方、義村は備前守護代浦上村宗ら家臣と対立・懐柔を繰り返していた[11]

永正8年(1511年)閏4月、義稙は管領細川高国を摂津の尼崎に派遣し、義村の義母・洞松院と交渉、亀王丸を匿う義村を赦免した[11]

永正10年(1513年)2月14日、義稙陣営と義澄陣営(実質は亀王丸陣営)の和睦により、義稙の将軍職が確定した。この時、和睦の証として、義村自らが上洛し、亀王丸から預かった太刀と馬を義稙に進上した[11]。なお、義晴はこの和睦以降、義維とともに義稙の養子になったとする史料[12]もある[6][11]

永正17年(1520年)11月、義村は義母の洞松院と浦上村宗によって隠居に追い込まれ、嫡子の赤松晴政に家督を譲り、出家した[13]。だが、12月に義村は亀王丸とともに置塩を脱出し、端谷の衣笠五郎左衛門を頼った[14]

永正18年(大永元年、1521年)3月、義村が浦上村宗への反攻を目論み、亀王丸は名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったが、義村は裏切りにあい、東条の王泉寺に移った[14]。その後、村宗と和睦し、片島の長福寺に移った[14]
将軍就任細川高国像(東林院所蔵)

同年3月7日、高国と対立した義稙が京都を出奔し、同月22日に行われた後柏原天皇即位式に出仕しなかったため、高国が警固の職務を行った。これにより、義稙は天皇の信任を失い、その放逐を決意した高国は新将軍の擁立を決めた[14]。当時、義維は高国と敵対する細川澄元のもとで育てられていたため、政情不安により播磨各地を義村とともに転々とする亀王丸が、新将軍として京へ招かれることとなった[14]

4月19日、高国は若狭守護の武田元光に上洛を促すとともに、義村と対立する浦上村宗にも呼び掛けた[14]。村宗は義村に忠節を誓って和睦し、亀王丸を義村のもとから引き離した[14]。亀王丸を失った義村が村宗に謀殺されたのは、その5ヶ月後のことであった[14]

7月6日、亀王丸は播磨から3万人の供勢を引き連れて上洛し、高国の歓待を受けた[15]。その後、仮の御所として上京の岩栖院に入った[15]。公家の鷲尾隆康は自身の日記に「不慮の御運で、誠に奇特だ」と、新将軍の座に転がり込んだ亀王丸を珍しがっている(『二水記』)[15]

7月26日、亀王丸は学習開始の儀式「読始」を行い、28日には朝廷から高国と東坊城和長によって考えられた義晴の名を与えられ、従五位下に叙された[15]

8月9日、元服前の儀式である涅歯(鉄漿で歯を黒く染める儀式)を行い[15]、8月29日には内裏へ代始の参賀を行った。また、高国の判断を受け入れた朝廷からは、11月25日に正五位下左馬頭に任ぜられた[15]

12月24日、義晴は新たに御所と定められた三条御所に移り、元服を行った[16][17]。元服は足利義政の故実に則って行われ、高国が加冠役を務めた[16]

翌25日、朝廷から征夷大将軍に補任され、第12代将軍となった[16][17]。また、同日に政務をとり始めるための儀式「沙汰始」、「評定始」、「判始」が執り行われた[16]

とはいえ、11歳の義晴には実際の政務を行うには未熟で、細川高国や政所執事(頭人)の伊勢貞忠、飯川国信や大舘尚氏(常興)に代表される義澄を支持していた幕臣(中には義晴と共に播磨に下っていた者もいた)、播磨国に所領を持つ奉公衆三淵晴員の姉で大舘氏の養女ともされる義晴の養育係・佐子局(後の清光院)らが政務の運営にあたった[18][19]
朽木での政治

大永6年(1526年)7月、高国が家臣の香西元盛細川尹賢の讒言に応じて殺害すると、元盛の兄弟である波多野元清柳本賢治らが高国から離反、細川晴元(当時は六郎)と内通し、内紛が発生した[16][20]。さらに、晴元は足利義維を擁立し、晴元方の細川澄賢、三好勝長、三好政長らが和泉を経て上京した[16][21]

大永7年(1527年)2月、高国が晴元方に桂川原の戦いで敗れたため、義晴は高国とともに近江坂本に逃れ、蒲生郡武佐の長光寺に入った[22][21]。その間、晴元と義維は三好元長に奉じられ、阿波から和泉堺へと入り、堺公方が成立した[22][21]

10月、義晴は細川尹賢、六角定頼、朝倉教景ら5万人の軍勢とともに入京した[23]。さらに、畠山義堯を破り、西岡まで進出したものの、三好元長と柳本賢治に挟撃され、19日に敗れた[23]。その後、両軍はともに入京し、義晴と元長との間で交渉が行われた[24]

大永8年(享禄元年、1528年)1月17日、義晴は定頼の仲介を受け、三好元長と和睦した[24]。このとき、元長が義晴の滞在していた東寺を訪問して、義晴と面会している[25]。だが、賢治がこれに反発したほか、三好政長も賢治に同調して28日に京を去ったばかりか、2月9日には晴元もこの和睦に反対していることが判明した[25]

5月14日、高国が失脚して京都から逃亡したのち[24]、28日に義晴は軍勢2万(うち1万は六角勢)とともに近江坂本に移った[22]


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