足利義教
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 凡例足利 義教
紙本著色足利義教像
重要文化財妙興寺蔵)
時代室町時代中期
生誕応永元年6月13日1394年7月11日
死没嘉吉元年6月24日1441年7月12日
享年48(満47歳没)[1]
改名春寅(幼名)→ 義円(法名)
→ 足利義宣 → 足利義教[2]
別名籤引き将軍、籤将軍、還俗将軍、悪御所、万人恐怖
戒名普広院殿善山道恵禅定門[2]
墓所十念寺
崇禅寺安国寺(首塚)
官位従五位下左馬頭従四位下参議左近衛中将従三位権大納言右近衛大将従二位右馬寮御監従一位内大臣左大臣淳和奨学両院別当贈太政大臣
幕府室町幕府 第6代征夷大将軍
(在任:永享元年(1429年) - 嘉吉元年(1441年))
氏族足利氏足利将軍家
父母父:足利義満、母:藤原慶子
兄弟尊満宝幢若公義持義嗣、義教、義昭法尊、ほか
妻正室:日野宗子
継室:正親町三条尹子
側室:日野重子、小宰相局、少弁殿、東御方、ほか
義勝政知義政義視、ほか
猶子:教賢(一条兼良息)、義快(二条満基息)、政超(九条政忠息)
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足利 義教(あしかが よしのり、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:足利 義ヘ)は、室町幕府の第6代征夷大将軍[3](在職:1429年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室藤原慶子。僧侶時代は義円(ぎえん、旧字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。

義教は、鎌倉公方足利持氏と通謀して自身を呪詛しているとして、比叡山延暦寺に攻勢を仕掛けてこれを抑え込み、永享の乱足利持氏を敗死させるなど、強権的な手法で室町幕府の地位向上に努めた。また自身の肝いりの政策として、高さ四丈(約12m)の雲居寺大仏の再建を行った。将軍と同等もしくはそれ以上の勢威を持った勢力を一掃し、九州や関東にも幕府の影響力を増大させたが、「万人恐怖」とも称される、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、最期は守護大名の赤松氏に暗殺された(嘉吉の乱)。以降足利将軍の権威は低下し、彼ほどの実権を持つ将軍は現れなかった。

義教は従来、恐怖政治を敷いた暴君であると評されてきた。しかし近年、義教の各種政策は戦国三英傑の先駆として、再評価する機運も見られる。
生涯
将軍就任まで

応永元年(1394年6月13日足利義満の子として生まれた[4][5]。幼名は春寅。兄には同年将軍となった義持尊満宝幢若公がいた[6]。同年には異母兄弟の鶴若丸(足利義嗣)が生まれているが、義嗣の誕生日は不明であり[7]、義教が何番目の男子かは明確になっていない。

応永10年(1403年)6月21日、青蓮院に入室したが、7月5日に青蓮院門跡である尊道法親王が逝去し、その前後に門跡を継ぐ筈であった義円の兄である尊満が青蓮院を追われている。そのため、何らかの事態が青蓮院に起きたと考えられるが、その背景や父である義満の関与の有無などは不明である[8]

応永15年(1408年)3月4日に得度して門跡となり、義円と名乗った。同じ日に異母兄弟の鶴若丸が従五位下に叙爵されており、義円は義満の後継者候補から外れた[9]。ただし、正式な受戒を受けたのは応永18年(1411年)の7月で、翌応永19年(1412年)6月8日付で後小松天皇の勅裁を請ける形で兄である足利義持から青蓮院の敷地と門跡領を安堵する御内書が出されている。これは、門跡継承に必要な前任者(尊道法親王)からの付法を受けていないため、本来であれば門跡継承の資格のない義円を門跡にするために特に天皇の勅許と将軍の追認が出されたことを意味していた、つまり、この時点で義円が門跡になったとする考え方もある[10]

応永20年(1413年)頃、准后宣下を受けている[注 1]

応永26年(1419年)11月、153代天台座主となり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ、将来を嘱望されていた[要出典]。その後一時大僧正も務めた[2][12][4]
将軍就任足利義教像(法観寺蔵)
還俗間もない頃の姿と伝わる

第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っており、応永32年(1425年)に義量が急死した後も、法体の義持が引き続き政治を行なった。その義持も応永35年(1428年)1月に病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否した。そこで三宝院満済管領畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果[2]石清水八幡宮籤引きを行い[注 2]、義持の弟である梶井門跡義承大覚寺門跡義昭相国寺虎山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになった[注 3]

1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された[注 4]。後継者に定まったのは義円だった。このことから「籤引き将軍」とも呼ばれる[注 5][16]

19日、結果は諸大名によって義円に報告され、義円は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため応諾した。


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