足利政知
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例足利 政知
時代室町時代後期(戦国時代
生誕永享7年7月12日1435年8月6日[1]
死没延徳3年4月3日1491年5月11日
改名清久(法名)→政知
別名豆州様、豆州主君[2]
戒名勝幡院、幢勝院九山
墓所静岡県三島市宝鏡院
官位従三位左馬頭
幕府室町幕府 初代堀越公方
主君足利義政→義尚義稙
氏族足利将軍家
父母父:足利義教
母:斎藤朝日妹(朝日氏
兄弟義勝、政知、義政義視、他
妻正室:不詳
側室:円満院(武者小路隆光の娘)[注釈 1]、他
茶々丸義澄潤童子小田政治?
テンプレートを表示

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府の第6代将軍足利義教の四男。第7代将軍・足利義勝の異母弟で、第8代将軍・足利義政足利義視の異母兄にあたる。第11代将軍・足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。

足利成氏享徳の乱を起こし、鎌倉から古河へ拠点を移して古河公方と称されると、政知はその討伐ために幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱および幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。
生涯
関東下向

永享7年(1435年)7月12日、6代将軍・足利義教の四男(庶子)として生まれる[1][3][4]。母は幕府奉公衆斎藤朝日の妹[1]。異母弟の義政より年上であるが、弟として扱われることがあるのは、義政の母が足利将軍家と代々婚姻を結んでいた公家日野家出身であったためとされる。幼少期からとして育てられ、清久(せいきゅう)と名乗り、天龍寺香厳院主となった[5]

長禄元年(1457年)7月、幕府は享徳の乱における状況打開のため、清久を「関東主君」、つまり正式な鎌倉公方と決定した[2]。これは、幕府と敵対状態にあった古河公方(鎌倉公方)・足利成氏に対して、上杉氏が成氏に代わる鎌倉公方の派遣を幕府に要請したことによるものであった[5]

12月19日、清久は義政の命により還俗し、この際に義政からの偏諱を受けて、政知と名乗った[2][5][注釈 2]

12月24日、政知は京都を出立し、近江園城寺に入った[6][7]。政知がなかなか関東に下向しなかった理由としては、下向の時期が整っていなかったという判断があったと考えられる[6]

長禄2年(1458年)5月25日(6月8日とも)、政知は幕府から「天子御旗」を渡され、関東へ下向した[2][7]。政知は下向に際し、義政から関東における御料所(鎌倉公方の直轄領)、新闕所の処分権(敵方の所領を処分して味方に与える権利)、寺社領の安堵権、兵糧料所の管理権も認められた[6]。政知はまた、補佐役である関東執事渋川義鏡上杉教朝奉行人の布施為基や朝日教貞(教忠)、朝日教清、富永持資らを連れて下向した。

だが、政知は幕府公認の鎌倉公方として派遣されたものの、成氏の勢力が強大なために鎌倉に入ることができず、伊豆に逗留した[5]。政知が伊豆に到着したのは、5月25日以降から8月13日までの間と考えられている[7]。政知は伊豆の政治的中心地であった奈古屋の国清寺に入り、のちに北条内堀越に堀越御所を構えたため、「堀越公方」と呼ばれるようになった[6]

義政は政知の派遣と前後して、奥羽甲斐信濃など関東周辺の大名・国人衆に出陣を命令、政知を中心とした大規模な成氏討伐計画を進めていたが、関東出兵を命じられていた越前尾張遠江守護斯波義敏が義政の命令に従わず、内紛(長禄合戦)鎮圧のため越前に向かい、翌長禄3年(1459年)5月に義政の怒りを買い更迭されたため斯波軍の出陣は中止、10月の太田庄の戦いで関東の幕府軍が成氏軍に敗北したため、成氏討伐計画が失敗したばかりか諸大名の信用も失い、政知は自前の軍事力がない中途半端な状態のまま伊豆に留め置かれることになった[8][9][10]
堀越公方としての活動

長禄4年(寛正元年、1460年1月1日、鎌倉に派遣されていた駿河守護・今川範忠が帰国すると、4月に政知の陣所である国清寺が成氏方に焼き討ちされる事態になり、5月以降に政知は堀越へ本拠を移し[2]円成寺を接収する形で堀越御所を構えた[11]

政知は成氏討伐どころか自らの命さえ危うい状況であり、使者を京都へ向かわせ幕府と対応を協議し、8月に斯波氏の家臣である朝倉孝景甲斐敏光が派遣され軍事力の目処は立った。しかし、政知が斯波軍の兵力を背景に鎌倉へ移ろうとすると、8月22日に義政に制止された。これは幕府が関東の幕府方勢力である上杉氏と堀越府が結びつき、堀越府が自立することを恐れて、幕府の統制下でつなぎ止めようとしたからであり、軍事指揮権も政知ではなく幕府が掌握し、政知の頭越しに関東諸侯に命令していたため、政知に実権は全くなかった。

寛正2年(1461年8月2日、義政の命令で斯波氏の家督交代が行われ、義敏の子・松王丸が出家、代わりに渋川義鏡の子・義廉が斯波氏当主となり、10月16日に朝倉孝景・甲斐敏光と共に義政と対面、正式に当主となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef