足利成氏
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 凡例足利成氏
時代室町時代 - 戦国時代
生誕永享10年(1438年)/永享6年(1434年
死没明応6年9月30日1497年10月25日
改名幼名:永寿王丸(永寿丸)または万寿王丸
→成氏
戒名乾享院殿久山道昌
墓所栃木県野木町 西光山乾亨院満福寺
官位従五位下左馬頭従四位下左兵衛督
幕府室町幕府 第5代鎌倉公方→同初代古河公方
主君足利義政義尚義稙
氏族足利氏
父母父:足利持氏、母:大井氏[1]
兄弟義久春王丸安王丸、成氏、成潤、尊?、ほか
政氏義綱(上杉顕実)(孫とも)、貞岩昌永(孫とも)[注釈 1]
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足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代武将。第5代鎌倉公方1449年 - 1455年)、初代古河公方[2](1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。

父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。
生涯
幼少期

幼少期には曖昧な点が多い。幼名は永寿王丸(永寿丸)とする解説[注釈 2]が多いが、万寿王丸とする百瀬今朝雄の説[3]が近年は支持されている[注釈 3][4][5]

生年に関しても、永享6年(1434年)あるいは永享10年(1438年)とする解説が混在する[注釈 4]。現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の2つになる。

一つ目の説では、嘉吉元年(1441年)の結城合戦にて、安王丸春王丸の他にも持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に第6代将軍足利義教暗殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。この4歳の童を成氏とみなす。逆算すると生年は永享10年となる。その後、宝徳元年(1449年)8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏の遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする[注釈 5]

百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊?であるとした[8]佐藤博信も、尊?を定尊と見直しているが、成氏の弟とする点では同様の見解である[9]。佐藤の見解は研究者の一定の支持を得ており、嘉吉の乱によって義教の息子(次男の義永と推測)を次期公方にする構想が白紙に戻った後、少なくても文安2年(1445年)頃までは定尊を次の公方に擁立する幕府の方針であったとみられている[10][注釈 6]。成氏本人は京都ではなく信濃から、文安2年(1445年)あるいは3年(1446年)に鎌倉に還御して鎌倉公方となり、宝徳元年6月から8月に元服したとする[8]。佐藤はさらに、鎌倉公方就任を文安4年(1447年)3月[11]、鎌倉帰還を同年8月27日[12]と特定した。

百瀬以降の研究成果に従えば、幼年期の経歴は次の通り。成氏は第4代鎌倉公方足利持氏の男子として、永享6年頃に生まれた[注釈 7]。成氏がまだ幼い永享11年(1439年)に、父持氏は関東管領上杉憲実・6代将軍足利義教と対立した結果、兄の義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。その後、成氏は信濃佐久郡大井持光の元で養われる[13]

同12年(1440年)3月に結城合戦が始まり、嘉吉元年4月に下総結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏の弟の3人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。この時、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。後に宝徳元年に元服、すなわち、6月頃に8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられて「成氏」という名が決まり[14]、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された[15]。なお、足利義成の諱は文安3年段階で決定されていたが、文安6年4月の元服までは公的な場所では使えなかったために下位の者に偏諱として与えることが出来なかった。こうした事情から成氏の元服は義成の元服後と決定されたと推定される(ただし、成氏の元服を行われた日については文安6年8月27日以前ということしか判明していない)[16]

なお近年、長塚孝は『簗田家譜』に簗田助良(満助)の姪として登場する「養寿(よす)」という女性が成氏の母であったとする説を提示している。また、簗田一族の簗田景助が安王丸の代官を務めている事実も指摘して、『古河公方系図』が記載している春王丸の母を簗田河内守の娘とする記述を誤記であるとして、河内守=助良(満助)の姪が安王丸と成氏の母であり、逸名の持氏正妻の実子・義久の自害後、奉公衆簗田氏が生んだ安王丸が結城合戦の主将に擁立され(春王丸の実際の母親は奉公衆以下の家格出身の中臈もしくは下臈と推測)、安王丸が春王丸と共に殺害されると残された持氏の子でもっとも母親の出自が高かった成氏が持氏の後継者として擁立されたと推測している[17][18]
鎌倉府再興(第5代鎌倉公方)

永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年に将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護上杉房朝や関東諸士から室町幕府への働きかけ(『鎌倉大草紙』)、あるいは上杉氏一門、家老から幕府への働きかけ(『永享記』)、幕府管領畠山持国の支持[注釈 8]などの結果、文安6年(または宝徳元年)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。

嘉吉の乱の後、すぐに次期鎌倉公方に対する方針が定まらなかった背景として、幕府の意向は成氏の弟(定尊)を立てる考えであったが、鎌倉府再興の運動(後述)を主導した東国諸士が成氏を再興の旗頭にしたためにどちらに継がせるかで意見の一致を見なかったこと、幕府が上杉憲実の関東管領復帰を諦めきれずに説得を続けていたこと(最終的に断念に至る)、何よりも幕府内部の政治的混乱で決定の先送りがされたことがあったとみられている[10]

まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、及び結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった[注釈 9]

新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉家上杉憲忠(上杉憲実の嫡男)が就任した。
江の島合戦

鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450年)4月には、山内上杉家家宰長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。


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