足利学校
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足利学校 学校門裏門孔子廟.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}足利学校 足利学校の位置

足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期(もしくは鎌倉時代)に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。「坂東の学校」と称された。

室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった[1]。創設年、創設者については諸説ある。1868年(慶応4年/明治元年)まで存続、1915年(大正4年)図書館となる。
概要

場所は現在の栃木県足利市(以前の表現では下野国足利荘五箇郷村)である。明治5年(1872年)に廃校になった後は組織としての存続はなく建物が残ったのみで、孔子廟などわずかな建物を残すのみとなった時代もあったが、再認識などにより、1990年(平成2年)に方丈庭園が復元され公開された。その後は足利氏の、心のよりどころ[2]生涯学習の拠点である[3]、などとされ、教育委員会によって管理されている。
歴史

足利学校の創建年代については諸説あり、長らく論争となっている(本項の論争の節を参照)。

室町時代の前期には衰退していたが、1432年永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。「能化」とは校長に相当する責任者であるが、江戸時代には「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれるようになり、今日では「庠主」と呼ばれる事が一般的である[注釈 1]。その成果あって北は奥羽、南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主(能化)も全国各地の出身者に引き継がれていった。

上杉憲実は1447年文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた[注釈 2]。この中で足利学校で教えるべき学問は三註[注釈 3]四書六経[注釈 4]列子荘子史記文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学医学なども教えた[4]戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。

享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。ルイス・フロイスは、彼の著作である「日本史」の第一部 序文の中で「全日本でただ一つの大学であり公開学校と称すべきものが、関東地方、下野国の足利と呼ばれる所にある」と述べている[5]

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、後北条氏と足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されそうになったが、当時の第9代庠主三要は関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、家康の保護を得て足利学校を守り通した。

江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた。

しかし江戸時代には京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していった。学問の中心としての性格ははやくに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典籍を所蔵する図書館として足利学校に注目していたのみであった。

明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。

廃校後、方丈などがあった敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去された。また、栃木県は足利学校の蔵書の一部を県に払い下げようとしたので、足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により、蔵書は地元に返還され、孔子廟を含む旧足利学校の西半分とともに県から地元に返還された。

地元足利町は1903年(明治36年)、足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立し、足利学校の旧蔵書を保存するとともに一般の図書を収集して公開した。また1921年(大正10年)、足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は国の史跡に指定され、保存がはかられることになった。

1980年代になり、小学校の移転、遺蹟図書館の一般図書の県立足利図書館への移管が行われ、史跡の保存整備事業が始められた。そして1990年(平成2年)に建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期のもっとも栄えた時分の様子が再現された。

2015年(平成27年)4月24日には国の日本遺産審査委員会によって「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」のひとつとして日本遺産に認定された。
論争足利学校の蔵書印。「野之国学」と記される。

足利学校の成立や、初期の体制については記録が残っておらず、しばしば論争になった。

創設時期をもっとも古くとる説では、伝承によればかつて足利学校は下野国国学であった、という。明治期にこの説を唱えた川上廣樹(足利藩家老を務めた武士で漢学者)によれば、当初、都賀郡国府に併設されていたが、足利家が将軍家となると、ゆかりの地に国学を移設したのだという。これに対し、国府と国学の位置が離れすぎており、当時移設したという記録もないという反論が出された。川上説は現在はあまり信じられていない。なお、国学起源説では、15世紀に編纂されたといわれる『鎌倉大草紙』の記述により、足利市昌平町の現在地に移転したのは、1467年(応仁元年)であるとしている。

近年、前澤輝政は、下毛野国(のちの下野国)が作られた際、国府は現在の足利市伊勢南町付近に置かれたとし、このときに国府に併設して国学がおかれ、これが足利学校の由来で、創立は8世紀であるとの新しい国学起源説を明らかにしている。前澤は自説の論拠として、現在使われていない古い地名で、足利市伊勢町・伊勢南町の境界付近が「国府野」「学校地先」と呼ばれていたことと、「國」などと刻印された瓦がここで出土したこと、江戸時代まで、この地が学校領であったことが古地図で確認できることなどを挙げている。ただし、前澤は、国府と国学は都賀郡(現在の栃木市方面)に移転したが、何故、足利の国学が廃絶せずに残ったのかについては理由を述べていない。また、足利に国府が置かれたかもしれないというのも、文献などによる有力な証拠がなく、今のところ仮説に過ぎないことに注意する必要がある。

古くからの国学起源説の論拠として挙げられるものに、「野之国学」と記された足利学校の蔵書印の存在がある。この印影は江戸期の一部の蔵書にしか使われておらず、印そのものも紛失していることから、後代の偽造であるとされてきた。これに対しては、川上と後述する前澤輝政は、この印は現在の足利市伊勢町付近から出土した、という記述を近藤正斎が『右文故事』(1817年(文化14年))中に残しており、本物である可能性も捨てきれない、と主張している。


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