趙_(戦国)
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前403年 - 前222年
国姓?姓趙氏
爵位侯爵
前325年に王を称す
国都邯鄲
河北省邯鄲市
分封者威烈王
始祖列侯
滅亡原因により滅亡(趙攻略
史書の記載史記
(巻43 趙世家)
周朝諸侯国一覧
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繁体字
簡体字 ?

発音記号
標準中国語
漢語?音Zhao
ウェード式Chao4
IPA[t??̂?]
国語ローマ字Jaw
粤語
イェール粤?Jiuh
IPA[tsì?u]
粤?Ziu6
?南語
台湾語ローマ字Ti?
上古音
バクスター-
サガール

[d]rew?


趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は?、氏は趙(秦の王室と同祖とされる)。首府は邯鄲。もともとは、臣下(卿)であった。紀元前228年にに滅ぼされた。
歴史
趙氏の興隆三晋地図

周の穆王に仕えた名御者の造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている。その後、趙氏は晋に仕え、晋の文公側近であった趙衰(趙成子)以後大いに栄え、春秋時代末期には晋を実質的に取り仕切る大臣の家系六卿の一つになっていた。しかし宰相趙盾(趙宣子)死後、趙氏は専制を疎まれ、粛清を受け、趙盾の孫の趙武(趙文子)が再興するまで一時没落する。紀元前456年、六卿の中でも最大の勢力を持っていた智氏当主の智瑶(智襄子)が韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤(趙襄子)は、韓氏の韓虎(韓康子)・魏氏の魏駒(魏桓子)に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返りを示唆し、これに成功する。三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙・韓・魏の三者が分け合い、それぞれ独立した。その後紀元前403年に趙・韓・魏は正式に諸侯となる。
武霊王の登場

武霊王の時代に強勢となり、周王の下に封建された諸侯のひとつから周王に替わる王を称するようになった。武霊王は紀元前307年、胡服騎射を取り入れる。胡服とは当時北方の遊牧民族が着ていた、短い衣に長いズボン、革靴を履き、あるいは足巻を、衣の袖を小さくして活動しやすいようにした服装である[1]。当時の中国では士大夫はゆったりした裾の長い服を着ており、戦時には戦車に乗って戦う戦士となったが、馬に乗るためにはこの服は甚だ不便であった。武霊王は北方の騎馬兵の強さに目をつけ自国にもこれを取り入れたいと考えた。その為には文明を象徴する戦車に乗る戦士であることを誇りとする部下達に、胡服を着させ、馬に直接またがる訓練を施す事が必要である。趙の国人達は強くこれに反発するが武霊王は強権的に実行させ、趙の騎馬兵は大きな威力を発揮し趙の勢力は拡大した。
秦の圧力紀元前260年の戦国七雄。中央上が趙

紀元前298年、武霊王は譲位した。王位は子の恵文王に譲り、自らは主父と名乗り実質的な権力を握り続けた。

しかし紀元前295年(?異説有り)、恵文王と公子章の間の後継者争いが元で主父が幽閉され餓死すると、趙の絶頂時代は終わり、秦の攻勢に脅かされる。藺相如廉頗趙奢といった名将たちの働き、たとえば、紀元前270年閼与の戦いなどにみられるようにしばらくは持ちこたえるが、藺相如が引退した後の紀元前260年長平の戦いで秦の将軍の白起に大敗し、その兵力の大半(戦死5万、坑刑40万と言われる)を失うと趙は急激に弱体化した。翌年、秦軍が首都邯鄲を包囲したため、民衆が飢え子供を喰らって食いつなぐなど滅亡寸前となるが、趙の民衆が一致団結した上、戦国四君の一人で宰相であった平原君により信陵君春申君らの援軍を呼び寄せ、撃退している。

長平の戦い以降は軍事的には衰退した趙だが、依然として高い文化力を保っており、各地から高名な学者が集った。特筆すべき学者としては、平原君の食客として集まった、名家(論理学)の代表的人物である公孫竜と、陰陽家の代表的人物である鄒衍がいる[2]。また、公孫竜と同世代の趙出身の学者としては、歴史書『虞氏春秋』を著した虞卿[2]、『劇子之言』に言行録をまとめられた劇子[3](燕に移り将軍となった劇辛のことか?)、縦横家兵家の二つの分野で著作を残した?煖[4]がいる。また、名将楽毅の親族で道家黄老思想を継承した楽瑕公と楽臣公(前漢相国曹参は楽臣公の孫弟子)も、趙滅亡の寸前まで趙に滞在していた[5]。長平の戦いでは失態を犯した孝成王も、趙の儒家荀子と楚の兵家臨武君を招いて軍事について論戦を行わせる[6]など、積極的に人材登用に動いた形跡が見られる。
斜陽と李牧の活躍李牧(清人絵)。秦の侵攻を撃退したのは、李牧と楚の項燕の二人のみ。詳細は「?の戦い (紀元前236年)」を参照

紀元前236年、秦は中華の統一に本腰を入れ始めた。趙の将軍の?煖に侵攻し[7]、国内が手薄になっている隙を狙い趙へ侵攻した。総大将王翦[8]副将桓?、末将は楊端和である[9][10]

まず、?の周辺の9城を落とした[9][10]。そして、全軍を1軍として閼与と?陽を落とした[9][10]。18日後、王翦は兵糧の問題上、軍の10分の2の精鋭部隊を率い、?や安陽を落とした[10][11]。詳細は「平陽の戦い (紀元前234年)」を参照

紀元前234年、桓?は平陽に直行した[12]。趙は扈輒を将として平陽を救援に向かわせ、秦軍と戦った[12]。秦軍は趙の将である扈輒を討ち取り、十万の趙兵を平陽の城外で斬首した[12][13]。翌紀元前233年、桓?は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[14][15]


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