趙郡
[Wikipedia|▼Menu]

趙郡(ちょう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の河北省邯鄲市一帯に設置された。
概要

のとき、邯鄲郡が立てられた。

紀元前203年高帝4年)、張耳が趙王となり、邯鄲郡・鉅鹿郡常山郡を管轄する趙国が置かれた[1]紀元前198年(高帝9年)、代王劉如意が趙王となり、趙国が代国を兼領した。紀元前194年恵帝元年)、趙王劉如意が呂太后の命で毒殺され、淮陽王劉友が趙王となった[2]紀元前181年(呂后7年)、趙王劉友が自殺すると、梁王劉恢が趙王となった。同年、劉恢が自殺すると、呂禄が趙王となった。紀元前180年(呂后8年)、呂后が死去し、文帝が即位すると、呂禄は殺され、趙国は除かれた[3]紀元前179年(文帝元年)、劉友の子の劉遂が趙王となり、趙国が再び立てられた。紀元前178年(文帝2年)、劉遂の弟の劉辟彊が河間王となり、河間国が分置された[4]紀元前154年景帝3年)、呉楚七国の乱が鎮圧されると、趙国は除かれ、邯鄲郡・鉅鹿郡・清河郡・常山郡・中山国が置かれた。紀元前152年(景帝5年)、景帝の子の広川王劉彭祖が趙王となり、邯鄲郡北部に趙国が置かれた[5]

前漢の趙国は冀州に属し、邯鄲易陽柏人襄国の4県を管轄した。王莽のとき、桓亭郡と改称された[6]

29年建武5年)、広陽王劉良が趙王となり、再び趙国が置かれた[7]後漢の趙国は邯鄲・易陽・柏人・襄国・中丘の5県を管轄した[8]213年建安18年)、趙王劉珪が博陵王となると、趙国は除かれ、趙郡が立てられた[9]

232年太和6年)、鉅鹿王曹幹が趙王となり、趙国が立てられた[10]

277年咸寧3年)、司馬倫が趙王となり、趙国が立てられた[11]の趙国は平棘房子元氏高邑・柏人・中丘・平郷下曲陽?の9県を管轄した[12]

北魏のとき、趙郡は殷州に属し、平棘・房子・元氏・高邑・欒城の5県を管轄した[13]

北斉のとき、殷州は趙州と改称され、趙郡は趙州に属した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、趙郡は廃止され、趙州に編入された。596年(開皇16年)、欒州が置かれた。605年大業元年)、趙州に統合された。607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、趙州は趙郡と改称された。趙郡は平棘・高邑・賛皇・元氏・?陶・欒城・大陸柏郷・房子・藁城鼓城の11県を管轄した[14]

618年武徳元年)、張志昂が唐に降ると、趙郡は趙州と改められた。742年天宝元年)、趙州は趙郡と改称された。758年乾元元年)、趙郡は趙州と改称され、趙郡の呼称は姿を消した[15]
脚注^漢書』高帝紀
^ 『漢書』高五王伝
^ 『漢書』高后紀
^ 『漢書』文帝紀
^ 『漢書』景十三王伝
^ 『漢書』地理志下
^後漢書』光武帝紀上
^ 『後漢書』郡国志二
^ 『後漢書』宗室四王三侯列伝
^三国志』魏書武文世王公伝
^晋書』世祖紀
^ 『晋書』地理志上
^魏書』地形志二上
^隋書』地理志中
^旧唐書』地理志二










漢朝の行政区分

 前漢

司隷校尉部

京兆尹渭南郡

左馮翊河上郡

右扶風中地郡

河南郡

河東郡

河内郡

弘農郡

豫州刺史部

潁川郡

汝南郡

梁国(?郡)

沛郡

?州刺史部

淮陽国淮陽郡

陳留郡(済川郡)

定陶国(済陰郡

東郡

山陽郡(昌邑国)

東平国

泰山郡

城陽国

青州刺史部

斉郡

済南郡(博陽郡)

済北国

平原郡

千乗郡

?川国

高密国膠西国

北海郡

膠東国

東?郡

徐州刺史部

東海郡

楚国彭城郡

魯国(薛郡)

琅邪郡

広陵国広陵郡

臨淮郡

泗水郡沛郡

冀州刺史部

魏郡

趙国

広平国


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:93 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef