趙治勲
[Wikipedia|▼Menu]

 趙治勲  名誉名人・二十五世本因坊
ワールド碁フェスティバルの公開対局で解説者を務める趙治勲(2019年6月)
名前趙治勲
生年月日 (1956-06-20) 1956年6月20日(67歳)
プロ入り年1968年(11歳9ヵ月)
出身地韓国釜山市
所属日本棋院東京本院
師匠木谷實
名誉称号名誉名人・二十五世本因坊
概要
タイトル獲得合計76(歴代1位)
七大タイトル合計42(歴代2位)
七大タイトル
棋聖8期 (1983-85,94,96-99)
名人9期 (1980-84,96-99)
本因坊12期 (1981-82,89-98)
王座3期 (1976,94,2001)
天元2期 (1987-88)
碁聖2期 (1979,86)
十段6期 (1982,88-89,2005-07)
世界タイトル
富士通杯優勝 (1991)
三星火災杯優勝 (2003)
テンプレートを表示

趙治勲
各種表記
ハングル:???
漢字:趙治勳
発音:チョ・チフン
日本語読み:ちょう ちくん
ローマ字:Jo Chihun
テンプレートを表示

趙 治勲(ちょう・ちくん、チョ・チフン、1956年6月20日 - )は、日本棋院所属の囲碁棋士名誉名人・二十五世本因坊[注釈 1]韓国釜山広域市出身。血液型B型木谷實九段門下。は本因坊治勲(ほんいんぼう ちくん)。

タイトル獲得数歴代1位。史上初の大三冠グランドスラム名人5連覇、本因坊10連覇、通算1500勝など数々の記録を樹立。大一番での勝負強さから「七番勝負の鬼」の異名も取った[1]

棋道賞最優秀棋士賞9回、秀哉賞9回。6年連続賞金ランキング1位。

叔父に囲碁棋士の趙南哲、兄も囲碁棋士の趙祥衍。本貫豊壌趙氏[2]
来歴
生い立ち

1956年6月、大韓民国釜山広域市に生まれる。父方の祖父は地方銀行の支店長でかなりの資産家であり、母方の祖父は地方財閥で役人が出入りする家だった。しかし朝鮮戦争後は、治勲の父母は無一文になっていた。兄弟は兄が3人、姉が3人おり、治勲は7人兄弟の末っ子だった。

出生したときの名前は「豊衍(ほうえん、韓国語読みはプンヨン)」だったが、まだ1歳か2歳の頃に家の外でお坊さんが通りかかり「名前を変えれば、この子は将来かならず大成する」と言われたことで、治勲と改名した[3]

碁は4歳頃から打ち始めた。父も打てたがかなり弱かった。父は鉄道会社にわずかに務めたことがあるものの無職だったので暇を持て余し治勲を碁会所に連れて行った。碁を覚えて1年くらいでアマ五段になった[4]

先に長兄の趙祥衍が訪日して木谷道場に入門していた。韓国では叔父・趙南哲に次ぐ打ち手だった祥衍だが、当時囲碁の世界最強国だった日本ではレベルが違いすぎた。そこで祥衍は家に手紙を出して「ぼくはもう遅かった。いまからでも間に合う。治勲を日本で鍛えてもらったほうがいい」と両親や親戚の説得を始めた。父は猛反対したものの祥衍の説得に負けてしぶしぶ承知した。この6歳までの記憶は治勲には無いという[5]
来日・入門

来日した日から木谷の内弟子として四谷道場に住み込み始めた。その頃道場には10人くらいの内弟子と同数くらいの通い弟子がいた。門下になった翌日に木谷一門百段突破祝賀会が開かれ、そのアトラクションの一つとして当時六段だった林海峰(現・名誉天元)に5子置きで打つことになった。118手で中押し勝ちした[6]

父は日本語が達者で会話も読み書きもできたが治勲は日本に来るまで日本語を知らなかった。しかし来日後すぐに覚えベラベラと喋れるようになり、口の減らない子どもとなっていた。また様々なイタズラをした[7]

7歳で日本棋院の院生となった[8]。それまでの入段最年少記録は林海峰の13歳だったが、治勲は来日前後から10歳までに入段して新記録をつくるだろうと予想されるなど大きな期待を寄せられていた。しかし10歳までの治勲は怠け者であり修行に身が入らなかった。木谷道場の方針も強制的には勉強させないというものだったためより不勉強になってしまった[9]。そのため毎回入段手合の準予選の段階で落ちていた。周囲の落胆は大きく治勲は早くもタダの人かといった批判が広まった[10]

学校は東京韓国学院という在日韓国人の子弟のための教育施設に通った。入学した途端、典型的な落ちこぼれになり小学1年から登校拒否になった。道場から出ると兄の祥衍の住むアパートで暇を潰していた。土曜日だけは授業が半日だったのでずっと無遅刻・無欠席を通した。しかし学校の教師からも見放されており、運動会にも遠足にも1回も参加しなかった。中学を卒業した後、高校にも1,2か月在学したが退学した[11]

入段に失敗し続けてたある日、2番目の姉から呼び出され「治勲ちゃん、どうする?いくらやっても毎年入段がダメなら、それはそれでしかたがないから、姉さんといっしょに韓国に帰りましょう。いつまで日本にいても、しょうがないものね」と言い涙した。それを見た治勲は無性に悲しくなりまた姉を悲しませた自分が無性に腹立たしくなってきた。そしてしっかり勉強して来年入段できなかったら韓国に帰ると約束した。この時もし韓国に帰ることとなったらみっともなさのあまり死を覚悟したという[10]。それからはよく勉強した[12]
入段・初タイトル

1968年に11歳9か月で入段手合の準予選に上がり予選を勝ち、そのまま本戦も通過して入段した (当時の入段最年少記録)。入段してからは碁を打つことが生きがいとなった[13]。同年二段に昇段。1969年 三段に昇段。1970年 四段に昇段。

治勲が13歳の時、兄弟子の石田芳夫(現・二十四世本因坊秀芳)が22歳の史上最年少で本因坊位を獲得する。この頃石田に続けて何局か先で打ってもらい、その時の後の印象が今でも鮮明に記憶に焼き付いている[14]

1971年、15歳で五段に昇段。

1973年、新鋭トーナメント戦に優勝し、初タイトル。大手合33連勝を記録。六段に昇段。

1974年に木谷道場が四谷から神奈川の平塚に移った。その際、年長の弟子はみな独立したため治勲が一番の兄弟子となった。この時一緒に移ったのは信田成仁(現六段)と園田泰隆(現九段)の2人[15]

1975年、12年間の内弟子生活から独立。この年、日本棋院選手権(天元戦の前身)の挑戦者となった。相手は坂田栄男九段(現・二十三世本因坊栄寿)5番勝負で第1局・第2局を勝ちきりあと1番勝てば優勝というところで韓国からも新聞社の取材班がドッと押し寄せた。あと1勝というところでそれまで張り詰めていた気持ちがわずかにゆるみ2連敗。最終局でもう負けようのない形勢になるも最後のヨセでポカをし逆転負けを喰らった。この敗戦でいままで自分の強さだけしか見えなかったものが、急に相手の強さと自分の弱さが見えるようになった[16]

プロ十傑戦に優勝し、初の公式タイトル獲得とともに、タイトル獲得の当時最年少記録となる。七段に昇段。
大三冠・グランドスラム

1976年に 第24期王座戦で兄弟子・大竹英雄と対局。2-1で破り20歳5か月で王座獲得 (当時の七大タイトル獲得最年少記録)。名人リーグ入り。1977年 結婚、のちに一男一女をもうける。1978年 八段に昇段。1979年 本因坊リーグ入り。第4期碁聖戦で大竹英雄九段を3-0で破り碁聖位を奪取。

1980年、第5期名人戦で大竹英雄名人を4-1(1無勝負)で破り名人位を奪取[17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:148 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef