趙廷来
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趙廷来
趙廷来
誕生 (1943-08-17) 1943年8月17日(80歳)[1]
日本統治下朝鮮 全羅南道昇州郡(現: 韓国 全羅南道順天市[1]
職業小説家[1]
言語韓国語
活動期間1970年[1] -
ジャンル小説
代表作『太白山脈
デビュー作「??(ぬれぎぬ)」[1]
公式サイト ⇒???(チョ・ジョンネ)
ウィキポータル 文学
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趙廷来
各種表記
ハングル:???
漢字:趙廷來[2]
発音:チョ・ジョンネ
日本語読み:ちょう ていらい[要出典]
英語表記:Jo Jung-rae[2]
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趙 廷来(チョ・ジョンネ[3]1943年8月17日 - )は、韓国小説家

朝鮮人パルチザンを肯定的に描いた長篇小説『太白山脈』は、反米親北朝鮮が流行していた当時の韓国で「必読書」としてベストセラーになったことで知られるが、当時を知る人からは事実と異なる点が指摘されている。日本統治時代の朝鮮で推奨された世俗的な仏教僧の息子である[4]
略歴

1943年8月17日、全羅南道昇州郡(現在の順天市)双岩面仙巌寺に生まれる。父は日本統治時代に推奨された世俗的な仏教の僧である趙宗玄[4]、母は朴聖純。4男4女の次男である。父は僧侶であり、仙巌寺の副住職を務めていた。趙もまた、幼年期を仙巌寺で暮らした。

1947年、妻帯や肉食禁止といった保守的な仏教を信じる住職と、妻帯で肉食をする世俗的な父[4]との間で悶着があり、趙一家は仙巌寺を離れ、順天邑幸洞に引っ越した。

1949年、順天南国民学校に入学するも1950年朝鮮戦争が勃発し、田舎に疎開する。1951年に家に戻るも1・4後退で再び避難する。通学を再開できたのは1952年からであった。1956年、光州西公立中学校(現:光州第一高等学校)に入学、1959年にはソウルの普成高等学校に進学する。1960年4月19日、四月革命が起こり、授業は中断。この間、アーネスト・ヘミングウェイや、アルベール・カミュギ・ド・モーパッサンなど文学作品に耽溺した。他校生との農村活動を兼ねた文芸活動も行い、詩、小説、童話などを習作し始める。1962年東国大学校国文科に入学。大学で洪申善、姜熙根らと会う。初めは詩を習作するも小説家になることを志し、1963年に「創作文学会」を結成した。呉永寿を招聘して講義をしてもらったり、また「小説家を大学講師に呼ぶ」ことを要求するデモを起こした。呉永寿とは師弟の関係になる。また、この頃、金初と出会い、恋愛をする。1966年、陸軍に入隊、KATUSA(米国軍に配属された韓国軍)に配属される。入隊中、1967年1月29日、金初宸ニ結婚する。1969年3月に除隊すると、教師職を求めるが就職できず、仕事のないまま習作を続ける。

1970年に、『現代文学』に呉永寿の推薦で短篇「陋名」「先生? 紀行」が掲載されることになり、文壇にデビューする。創作活動に没頭する一方、1972年、中京高等学校の教師の職を得る。中京高校は1973年10月維新の余波で辞めることになったが、韓国文人協会の発行する『月刊文学』の編集の仕事を貰い、執筆活内動と平行して仕事をこなす。1976年1月、文人協会を離れた後、『小説文芸』の運営を引き受け、8号と9号の発行に携わった。1978年、「民芸社」を設立し、本格的に出版業を始める。しばらく、出版業の仕事のため、創作活動から遠ざかるが、自らの本業は作家であることを見つめなおし、1981年から、創作活動に時間を割くことにする。この年、「??? ?(流刑の地)」で現代文学賞を受賞、翌1982年、「??? ? (人間の門)」で大韓民国文学賞を受賞する。1983年から1989年まで、1万6千5百ページに及ぶ長篇『太白山脈』を書き、当時反米親北朝鮮が流行していた韓国内で、絶賛された[4]

2017年の韓国大統領選挙では共に民主党候補の文在寅を支持した[5]
作品の影響

親北だけでなく、反日でもあり、韓国左派である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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