趙夙(ちょう しゅく、生没年不詳)は、春秋時代の晋の大夫で、趙氏の宗主。
趙夙は趙公明の子として生まれた[1]。紀元前661年、晋の献公が二軍を作り、公自らが上軍を率い、太子申生が下軍を率いると、趙夙は公の兵車の御者となった。晋軍が耿・霍・魏を滅ぼし、太子のために曲沃に築城すると、趙夙には報賞として耿の地を賜った[2]。
趙夙の死後、趙衰が後を嗣いだ[3]。
脚注[脚注の使い方]^ 『史記索隠』趙世家所引『世本』
^ 『春秋左氏伝』閔公元年
^ 『史記』趙世家による。『史記索隠』趙世家所引『世本』によると、公明が共孟と趙夙を生み、趙夙が趙衰(趙成季)を生み、趙衰が趙盾(趙宣子)を生んだとする。『春秋左氏伝』によると、趙衰は趙夙の弟とする。『史記』趙世家は共孟が趙衰を生んだとするが、?周はこれを誤りとみなした。
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