趙元任
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趙 元任
人物情報
生誕 (1892-11-03) 1892年11月3日(光緒18年9月14日)
天津
死没1982年2月25日(1982-02-25)(89歳)
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ケンブリッジ
出身校コーネル大学ハーバード大学
学問
研究分野言語学
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趙 元任(ちょう げんじん、ユエン・レン・チャオ、Yuen Ren CHAO、1892年11月3日 - 1982年2月25日)は中華民国アメリカ合衆国言語学者
経歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2018年7月)

1892年11月3日(光緒18年9月14日)天津で誕生。(あざな)は宣重。趙家元来の出身地は、南京と天津の中間地点の常州で「母方言」地域。但し、祖父及び父の任地の関係から転居が多く、就学[満七才]以前に、北京語・保定方言・常熟方言を習得していた。

1895年(3歳)で母親から漢字を習う。また後に祖父より『大学』の素読を習う。1898年(6歳)、家塾で就学。『大学』は習得済み、また『中庸』は難解ゆえ、『論語』『孟子』を学習。夕食後、母から詩及び歌を、父から笛を習った。

1904年(12歳):両親の死去に伴い蘇州へ転居。蘇州方言を習得。1906年(14歳)、常州へ戻り渓山小学へ入学。1907年(15歳)、南京の江南高等学堂へ入学。米国人教師David J. Carverと出会い啓蒙を受ける。但し、Carverの英語は南部訛が強く、後年アメリカへ留学した際、「英語が違う」というのがアメリカの第一印象であった。

1910年(18歳):清華学堂の奨学金を得て、米国コーネル大学へ留学。合格者72名中2位の成績だった。当初は電気工学を目指す予定であったが、数学を専攻した。ドイツ語・フランス語を習得する一方で、一般音声学の講義(Herman Davidson)でIPA(国際音声字母)に接し音声学に興味を持つ。卒業時の成績は、コーネル大学開校以来のものであった。1914年(22歳)コーネル大学大学院(哲学専攻)へ進学。1915年(23歳)、ジョージ・マーサ・ダービィ哲学奨学金を得て、ヘンリー・M・シェーファー(英語版)を慕ってハーバード大学大学院へ移籍した。言語学のほか、サンスクリット語をチャールズ・ロックウェル・ランマン(英語版)に学んでいる。学院論文はContinuity: A Study of Methodology (1918年学位取得)

1919年(27歳):コーネル大学で物理学講師に就任

1920年(28歳):北京・清華学校からの招聘を受け帰国

1920年 - 1921年:バートランド・ラッセルの中国公演旅行の通訳を務める。

1920年10月26日、湖南省長沙で通訳した際、趙の湖南方言があまりに流暢なので、「湖南の何県出身ですか?」と質問された[1]


1921年(29歳):外科医の楊歩偉と結婚。楊は東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業後、中国初の近代女医として北京で開業していた。二人は一日ごとに話す方言を変えていた。その時期、ベルンハルド・カールグレンの“Etudes sur la phonologie chinoise”(『中国音韻学研究』)を読み、中国語の史的研究に興味を持ち始める。また、言語学を専念する事をきめたのも、この時期である。同1921年秋、ハーバード大学の論理学、及び中国語講師に任ぜられる

1923年(31歳)、欧州を遊学。アンリ・マスペロポール・ペリオアントワーヌ・メイエなど著名な学者の知遇をえる。なかでもダニエル・ジョーンズから指導を受け、また国際音声学会の主要メンバーの一人になる。

1924年(32歳):清華学校の大学制移行に伴い、王国維らと共に「導師」として招聘される。この時期、国語統一準備委員会のメンバーになり、林語堂銭玄同などと「数人会」を結成。「数人会」の名前は『切韻』(陸法言、601年)の「序」に出てくる「我輩数人,定則定矣」から採られたもので、この会は、国語運動の理論的・科学的な方向付けを行った。具体的には『国語常用字彙』(1932年)の編集・出版として結実した。また、国語ローマ字國語羅馬字)制定の主要メンバーとしても活躍した[2]。この時期、各地に方言調査に赴く。1927年10月から12月まで揚子江下流の呉語地域(その結果が『現代呉語的研究』)、1928年から1929年まで広東・広西両省及び汕頭・潮州を調査した。

1932年 - 1933年(41歳)、Chinese Educational Missionの長として米国へ。レナード・ブルームフィールドバーナード・ブロックなどの他に、エール大学においてエドワード・サピアと会っている。その際サピアは、常州方言の音声体系と高頻度語句について質問。その1時間後には趙と常州方言で話していた由。

1934年(42歳):安徽方言調査。“Non-uniqueness of phonemic solutions of phonetic systems”執筆・出版。

1935年(43歳)春、江西方言調査。秋、湖南方言調査。1936年(44歳)湖北方言を調査。

1938年(46歳):ハワイ大学東洋学研究所へ移籍。1939年7月14日(47歳)ハワイからアメリカ本土へ移動。同時期、李方桂は中国・昆明(趙一家が戦火を逃れていた都市)に向かう船に乗った。

1939年 - 1940年(48歳):エール大学で教鞭

1940年:ハーバード大学へ。中英辞典プロジェクトの主任。

1945年(53歳):アメリカ言語学会の会長に選出

1947年(55歳):カリフォルニア大学バークレー校へ。この間、言語習得、音声タイプライター、数理言語学、翻訳論社会言語学、科学方法論など研究。

1954年(62歳):アメリカ国籍を取得

1959年(67歳):東京大学京都大学にて講義

1960年(68歳):アメリカ東洋学会の会長に選出。同年、カリフォルニア大学を定年。名誉教授になる。

1981年3月(88歳)に妻・楊歩偉が逝去。1982年2月25日(89歳):マサチューセッツ州ケンブリッジにて逝去[3]
主要著書

現代呉語的研究. 清華学校研究院. (1928) 

広西?歌記音. 中央研究院歴史語言研究所単刊. 甲種之一. (1930) 

“The non-uniqueness of phonemic solutions of phonetic systems”. 中央研究院歴史語言研究所集刊 4 (4): 363-397. (1934). (音韻分析が複数ありえることを示した有名な論文)

鍾祥方言記. 中央研究院歴史語言研究所単刊. 甲種之十五. 商務印書館. (1939) 

“Distinctions within Ancient Chinese”. Harvard Journal of Asiatic Studies 5: 203-233. (1941).
JSTOR 2717913. (音韻論を中国語中古音に適用したことで有名な論文。本来の題は「Distinctive and Non-Distinctive Distinctions in Ancient Chinese」だったが、雑誌に載せるときに削られた。)

Concise Dictionary of Spoken Chinese. Harvard University Press. (1947) (楊聯陞と共著)

Cantonese Primer. Harvard University Press. (1947) 

Mandarin Primer. Harvard University Press. (1948) 

湖北方言調査報告. 商務印書館. (1948) (2冊)

語言問題. 台湾商務印書館. (1959) 


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