越路吹雪
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「コッシー」はこの項目へ転送されています。NHKの子供向け番組「みいつけた!」のキャラクターについては「みいつけた!#登場人物」をご覧ください。

こしじ ふぶき
越路 吹雪
婦人生活』1952年1月号より
本名内藤 美保子
(旧姓:河野)
生年月日 (1924-02-18) 1924年2月18日
没年月日 (1980-11-07) 1980年11月7日(56歳没)
出生地 日本 東京府東京市麹町区
(現・東京都千代田区麹町
出身地 日本 新潟県
死没地 日本 東京都目黒区東京共済病院[1]
国籍日本
職業歌手女優
ジャンル舞台
活動期間1937年 - 1980年
活動内容1937年:宝塚歌劇団入団
1951年:同劇団退団。その後、シャンソン歌手舞台女優として活躍
1959年内藤法美と結婚
1965年第7回日本レコード大賞歌唱賞受賞
1980年胃癌のため死去
配偶者内藤法美(1959年 - 1980年)
著名な家族河野友孝(父・東京電燈エンジニア
河野益代(母)
主な作品
舞台
『再び君が胸に』
代表曲
愛の讃歌
ラストダンスは私に
サン・トワ・マミー
ろくでなし」など

 受賞
第7回日本レコード大賞・歌唱賞
1965年「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」

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越路 吹雪(こしじ ふぶき、本名:内藤 美保子(ないとう みほこ)、旧姓:河野(こうの)、1924年大正13年)2月18日 - 1980年昭和55年)11月7日)は、日本シャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団の主演男役[2][3]。愛称は「コーちゃん」「コッシー」(旧姓から)。

所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業(その後東芝EMIに改称、現:ユニバーサルミュージック)。
生涯
生い立ち

1924年(大正13年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区麹町)に5人きょうだいの3人目として生まれる[4]。両親は山梨県の出身[4]。越路本人は「父親の祖先山窩の出」と話している[4]。両親が姉の看病に専念するため、越路は山梨の祖父母のもとに預けられた。その後、父が新潟へ転勤し、越路も新潟で下宿した。これが「越路吹雪」の芸名の由来となった(芸名は父親が名づけた)。長野県飯山高等女学校(後の長野県飯山南高等学校・現:長野県飯山高等学校)を中退し、宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)に入学した。

子供の頃から歌が好きで、ラジオから流れる曲をよく口ずさんでは当時の流行り歌をたちまち覚えたが、その反面勉強が大嫌いでずる休みすることばかり考えているような子だった[5]。その様子を目にしていた父が、娘に好きな歌を思う存分歌える場所として宝塚歌劇団入団を薦めたのである。
宝塚時代住江みちると越路(1943年)

宝塚歌劇団男役スターとして戦中から戦後にかけて活躍した。宝塚歌劇団27期生。同期生に月丘夢路乙羽信子東郷晴子大路三千緒らがいる。宝塚入団時の成績は93人中73位[6]。「清く正しく美しく」のスローガンで知られる宝塚で越路は喫煙や門限破りをするなど異色の存在であり[5]、「不良少女」というあだ名を付けられた。

1939年(昭和14年)2月、宝塚歌劇団・月組公演「宝塚花物語」で初舞台を踏んだ。この時の役は、たくさんいるたんぽぽの精のうちの1人だった。花組に所属してからは、1943年(昭和18年)の公演「航空母艦」で浪曲師広沢虎造ものまねをして演じた森の石松が評判となり、この頃から注目を集めるようになる。

1944年(昭和19年)、宝塚大劇場が戦争により閉館するなど戦況が悪化するとともに、先行きを不安視し退団する生徒が続出した。その結果、若手たちが台頭し始めるのだが、その筆頭が越路であった。この直後不良っぽさを漂わせる越路の色気に熱烈な大人のファンがつき[5]花組のトップスターとなった。

終戦後、宝塚が再開した1946年(昭和21年)の第2回花組公演で越路が主演した「ミモザの花」は好評を博し、楽曲は今も宝塚の代表曲のひとつとして歌われている。また「ブギウギ巴里」でレコードデビューし、戦後の宝塚で最大のヒットとなった。

1950年(昭和25年)、宝塚在籍のまま東宝映画「東京の門」「エノケンの天一坊」などに出演。翌年には、第1回帝劇コミック・オペラ「モルガンお雪」に主演。この舞台の主演によって、越路が国産ミュージカル女優第一号となった。同年7月31日[6]、宝塚を退団した。最後に出演した公演の演目は、月組公演「春のおどり[6]」である。
歌手として「ブギウギ巴里」を歌う(1953年)1956年撮影

1951年(昭和26年)の宝塚退団後は、1968年にフリーになるまで17年間東宝の専属スター女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーする。特にシャンソンにおいては、作詞家翻訳家岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介し、「(日本の)シャンソンの女王」と称された。「魅せる歌手」と評価された越路は、同じ女性シャンソン歌手で「聴かせる歌手」と称される岸洋子と人気を分け合った。ちなみにシャンソンを歌うきっかけとなったのは、宝塚時代にある舞台を見に来た進駐軍の将校から「あなたは“語る”歌い手になるべき」と言われたことから[5]

1953年(昭和28年)から当時では珍しい歌手のワンマンショーであるリサイタルを開催した。リサイタルは1965年(昭和40年)より開設間もない日生劇場に場を移した。リサイタルはさらに好評を博し、越路が逝去する1980年(昭和55年)まで「ロングリサイタル」と称する1ヶ月に渡る長期公演となった。「ロングリサイタル」は歌手・越路吹雪の名声を不動のものとしたのであった。

1958年(昭和33年)にテアトロン賞1965年(昭和40年)に第7回日本レコード大賞歌唱賞、1968年(昭和43年)に文化庁芸術祭奨励賞など、多くの賞を受賞した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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