logo越水城
(兵庫県)
大社小学校南東にある越水城の石碑と案内看板
別名小清水城
城郭構造平山城
天守構造不明(1516年築・非現存)
築城主瓦林正頼
築城年永正13年(1516年)
主な城主瓦林正頼、三好長慶、篠原長房
廃城年元亀元年(1570年)
遺構なし
指定文化財なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度44分45.751秒 東経135度20分9.593秒 / 北緯34.74604194度 東経135.33599806度 / 34.74604194; 135.33599806
越水城(こしみずじょう)は、摂津武庫郡(兵庫県西宮市)にあった日本の城。現在は西宮市立大社小学校に案内看板・石碑が建っている。 永正13年(1516年)に瓦林城主の瓦林正頼が築城した[1]。 永正15年(1518年)に管領細川高国を軍事的に支えていた大内義興が京を離れ周防に帰国すると、翌永正16年(1519年)11月に阿波に撤退していた細川澄元と阿波守護代の三好之長が挙兵し(両細川の乱)、瓦林正頼の越水城を落とした[2]。しかし、永正17年(1520年)5月、三好之長が細川高国に討たれると(等持院の戦い)、越水城も瓦林氏に戻ったとみられる。 大永7年(1527年)澄元の子・細川晴元が三好元長と共に上洛すると(桂川原の戦い)、越水城は三好氏に奪われたと考えられる。 享禄5年(1532年)、三好元長が一向一揆に討たれると、天文2年(1533年)9月6日瓦林氏の一族が一向衆と結託して阿波篠原氏の守る越水城を取り返しているが[1]、同23日に三好伊賀守に奪い返された。 越水城は、三好氏の本国阿波と畿内とを結ぶ重要な拠点であり、天文8年(1539年)8月には、元長の子、三好長慶が居城としている[3]。天文10年(1541年)9月、伊丹城の伊丹親興が越水城に攻め寄せたが長慶はこれを撃退している(太平寺の戦い)。 この書状は、天文21年(1552年)5月29日に近江の六角義賢が当時の越水城主三好長慶に送った書状。江口の戦いで長慶によって京を追われた細川晴元は六角義賢の仲介によって和解した。その条件は、晴元は出家し息子の聡明丸(後の細川昭元)に家督を継ぎ、成人するまでは高国の子・細川氏綱に管領職を任せるという内容であった。この書状の内容は、仲介役を果たした義賢が聡明丸の処遇を長慶に相談したものになる。書状の2行目に「越水帰陣」という記載が見受けられる。その書状が届いた後、聡明丸は越水城に移動することになる。 天文22年(1553年)長慶は居城を京に近い芥川山城に移し、越水城には松永久秀を置いた[4]。その後、松永久秀は滝山城を改修し、長慶を招いた。 三好長慶の死後は、芥川山城に入った三好長逸(三好三人衆)と松永久秀が反目し、永禄9年(1566年)2月、東大寺大仏殿の戦いにおいて、松永方の瓦林三河守が越水城主となっていたが、永禄9年(1566年)6月に阿波・讃岐の軍勢を引き連れた三好家の重臣・篠原長房により落城し、その居城となった。この時、足利義栄(後の14代将軍)が9月23日に越水城に入城し、12月5日には摂津富田の総持寺に、同月7日には普門寺に入っている[1]。 篠原長房は越水城を拠点として摂津、大和など各地に転戦したが、永禄11年(1568年)15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が9月7日に岐阜城を出立、12日に六角義賢の近江観音寺城が陥落(観音寺城の戦い)、25日に大津まで進軍すると長房と三人衆の軍は崩壊、29日に山城勝龍寺城の岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城の細川昭元・三好長逸が退去、10月2日には長房も越水城を放棄し、阿波へ落ち延びた。越水城には足利義昭が入城した。足利義昭がその後帰京して将軍になると、近江の国人和田惟政が守った。 しかし、元亀元年(1570年)9月篠原長房が阿波、讃岐勢2万を率い再び摂津に上陸(野田城・福島城の戦い)、瓦林城を落とし、越水城を奪い返した。
沿革西宮市の保護樹木に指定されているクロマツの脇にある越水城跡の石碑
瓦林氏と三好氏の争い
三好政権
六角義賢の書状
六角義賢書状/安土城考古博物館所蔵
篠原長房の拠点
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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