越後長岡藩
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伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』に描かれた長岡藩(国立国会図書館デジタルコレクションより)

長岡藩(ながおかはん)は、越後国古志郡全域および三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた。現在の新潟県長岡市新潟市を支配領域に含む藩であった。山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。

藩庁は長岡城長岡市)。藩主は初めに堀家(8万石)、のちに牧野家に交替した。牧野家の家格帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ6万2千石、後に加増されて7万4千石になった。正徳2年(1712年)の内高は約11万5300石、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}安政元年(1858年)には約14万2700石あった[要検証ノート]。
沿革堀直寄の像

越後長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域には、江戸時代初期には蔵王堂藩が存在していたが断絶し、高田藩領となっていた。

元和2年(1616年)、高田藩主松平忠輝大坂の陣における不始末から除封されると、外様大名堀直寄が8万石をもって古志郡の旧蔵王堂藩領に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して長岡藩を立藩した。牧野忠成の木像

直寄は2年後の元和4年(1618年)には越後村上に移され、代わって譜代大名牧野忠成長峰藩5万石から、長岡へ6万2000石に加増の上で入封する。牧野家は堀家ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、元和6年(1620年)には1万石を加増、次いで寛永2年(1625年)に将軍秀忠から知行7万4千石余の朱印状を交付された[注釈 1][注釈 2]

その後、長岡城と城下の拡充・整備および領内の田地の改良・新墾田開発をすすめ、藩領の新潟湊新潟町奉行をおいて管理、これを基点とする上方との北前船の物流を活用して藩経済は確立された。知行実高表高を遙かに上回るようになり、新潟湊の運上金収入もあいまって藩は豊かになった。また信濃川水運の船問屋利権も有していた。その後は次第に諸経費が増加する一方で、年貢収納率は逆に低下したために藩財政は逼迫しはじめ、また9代忠精以降は藩主の老中京都所司代への任用が増えて藩の経費もかさみ、さらに天保年間に新潟湊が幕領として上知され、その一方で軍事費の増強の必要性が高まると財政問題は根本的解決が迫られた。その結果、幕末の河井継之助の藩政改革の断行へ進むことになった。戊辰戦争北越戦争)を描いた浮世絵。画題は『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』であるが、時の政府に配慮して、北越戦争を武田・上杉の戦いに見立てて描いたもの。

しかし、改革半ばにして明治維新の動乱に接し、徳川家処罰反対の立場をとった長岡藩は戊辰戦争に巻き込まれ、慶応4年5月(1868年新暦6月)河井の主導のもと奥羽越列藩同盟に参加を決定、同盟軍側(東軍)として長州藩薩摩藩を中心とする維新政府軍(西軍)に抗戦したが敗北した。明治元年12月22日(新暦1869年2月3日)に赦免されて24,000石(牧野家)で復活、まもなく財政窮乏などの理由で藩主牧野忠毅は明治3年10月22日(1870年11月15日)に城知を返上して柏崎県に併合され、長岡藩は廃藩となった。

(この節の出典[3][4]
藩風

藩風は藩祖以来の「常在戦場」「鼻ハ欠とも義理を欠くな」「武士の義理、士の一分を立てよ」「武士の魂ハ清水で洗へ」等の『参州牛窪之壁書』や「頭をはられても、はりても恥辱のこと」「武功の位を知らずして少しの義に自慢すること」等の『侍の恥辱十七箇条』と呼ばれた条目[注釈 3]を常の武士の心がけとしてかかげ、質朴剛健な三河武士の精神を鼓吹するものである。明治初めの藩政再建中に小林虎三郎が、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩から贈られた米百俵を教育費にあてたという「米百俵の精神」もこのような藩風とともに生まれ、その後も長岡人の気風として受け継がれている。小林儀右衛門有之(海鴎)など学問で、上級藩士(大組)入りするものも出た。
藩学

林鳳岡の高弟・岡井碧庵を江戸藩邸に招いたり、延宝7年(1679年)に林家の斡旋で、弘文院門弟を召抱えており、当初は幕府が官学として定めた朱子学の方の影響が強かった。

しかし、江戸後期の藩主・牧野忠精が京都所司代となったり、家老の山本精義や家臣高野永貞も古義学を支持した縁で、京から古義学伊藤仁斎の曾孫となる伊藤東岸を招聘し、荻生徂徠派の古文辞学の秋山景山と同時に藩校・崇徳館の都講に任命される。

これにより藩学の主流は、古義学と徂徠学の2系統並立体制という独特のものとなり、崇徳館内に古義学と徂徠学の講堂がそれぞれ設立された。また、両派ともに寛政異学の禁で「風紀を乱す学」とされた古学であり、これを譜代大名で幕府首脳に所属する藩が藩学とした点でも特殊である。

秋山が引退すると徂徠学は廃され、朱子学がこれに代わるが、なおも古義学との2系統並立がとられた。しかし、河井継之助の藩政改革の一環により古義学が廃され、朱子学に一本化された。ただし、朱子学の講義を担当した高野松陰は佐藤一斎門下であるために、公式上の藩学の朱子学の講義ついでに陽明学を教授していた。このために後世に「陽明学が藩学の主流であった」という誤解を招いているが、公式上の藩学は朱子学で、実態は朱子学と陽明学の並立である。

このように古学や陽明学に寛容であったが、藩校で修学できる身分を士分に限定したり[注釈 4]、安政5年(1858年)に洋学の修学を制限したりしている。
藩の武芸

弓術は吉田流、雪荷流、日置流が、馬術大坪流や直鞍流、長息流が流入した。兵学甲州流軍学山鹿流、楠流、越後流が採用されたが、西洋兵術が流入すると衰退した。

砲術は武衛流、南蛮堅拓流、自得流があり、洋式の威遠流が流入する。幕末には武衛流と威遠流が並行練習された。

槍術は一空流、当流、風伝流、本心鏡智流、一旨流、穴澤流があったが、河井継之助の命令で銃剣にとって代わられた。

剣術一刀流、三留流、東軍流柳生流鐘捲流戸田流(富田流)無念流(神道無念流)があったが、幕末には一刀流に一本化された。また居合術伯耆流田宮流、景之流が、長刀術は穴澤流が流入している。
藩主・牧野家

元和4年(1618年)以降の藩主牧野家の先祖は室町戦国期の東三河地方の牛久保城牧野氏であったとされ、初代長岡藩主忠成の祖父・成定以前の牧野家については諸説があるが、戦国大名今川氏に属して松平氏徳川家)とは対立した(参照→三河牧野氏)。成定の代に徳川家康家臣・酒井忠次配下の東三河国衆として徳川軍に所属し、そのまま家康の関東移封に随従して天正18年(1590年)群馬県前橋市東部となる上野国大胡藩2万石の藩主、元和2年(1616年)越後長峰藩5万石藩主を経て元和4年(1618年)越後国長岡に入封した。以後、明治の廃藩まで250年間封地を動かず長岡藩主として連綿した。


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