長岡線
概要
現況廃止
起終点起点:来迎寺駅
終点:寺泊駅
駅数27駅
運営
開業1915年10月7日 (1915-10-07)
旅客営業廃止1975年4月1日
廃止1995年4月1日 (1995-4-1)
所有者長岡鉄道→越後交通
使用車両車両の節を参照
路線諸元
路線総延長39.2 km (24.4 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化直流750 V 架空電車線方式
最急勾配10 ‰
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停車場・施設・接続路線
凡例
国鉄:魚沼線
0.0来迎寺駅
5.6[* 1]有栗駅
7.6西長岡駅
11.9越後関原駅
14.0王寺川駅
16.5脇野町駅
20.9上与板駅
22.4与板駅
国鉄:越後線
31.3大河津駅 寺泊駅 (III)
36.1寺泊新道駅 寺泊駅 (II)
39.2寺泊駅 (I)
長岡線(ながおかせん)は、新潟県長岡市に本社を置く越後交通が運行していた、三島郡越路町(現長岡市)の来迎寺駅から西長岡駅、大河津駅(現JR越後線寺泊駅)を経由して、三島郡寺泊町(現長岡市)の寺泊駅(前出の現・寺泊駅とは異なる)までを結んでいた鉄道路線。 長岡鉄道 来迎寺側からは魚沼鉄道(後の国鉄魚沼線)から続く形で新魚沼鉄道として計画され、1914年(大正3年)3月3日に長岡市の木村松二郎の申請により中貫鉄道として設立した。同年8月7日に長岡市の清水常作らが申請した長岡鉄道と合併し社名を変更した。当初、信濃川を渡り国鉄長岡駅へ接続する計画だったが長大な鉄橋の建設費を確保できずに挫折[* 2]。そのため西長岡で来迎寺側へ向かう線路と寺泊側へ向かう線路がスイッチバックする線形となった。なお、長岡駅から蔵王、与板を経て大河津で越後鉄道(現JR越後線)に接続し寺泊へ至る、三国街道を辿る経路も候補に上がっていた。 路線の選定に関して、日吉村から与板町にかけての地域(現在の長岡市)は当初、実際に建設されたルートより東側にある集落を結ぶルートで免許された。1914年に西側の集落を結ぶルートへの変更が申請されたが、沿線の町村は線路の敷設で水路が遮断されて洪水時の被害が大きくなることや、小学校の通学路と線路が交差して児童に危険が及ぶなどとしてルート変更に反対。最終的には東側集落と西側集落のあいだに広がる農地を貫くルートに再変更されて建設された。[3][4][* 3] 与板町内は線路は街中を通っていたものの、町中心部が既に住宅地であったため与板駅の用地買収は難航し、結局街外れに設置されたことで利便性が悪かった。また長岡鉄道の開業により、それまで旅客・貨物輸送の中心を担っていた信濃川・黒川を利用した蒸気船等による船運は衰退を余儀なくされている。 こうして1915年(大正4年)10月7日与板 - 大河津 - 寺泊間が長岡鉄道として開業した。1916年(大正5年)1月5日西長岡 - 与板間が延伸開業、1921年(大正10年)11月18日来迎寺 - 西長岡間(来迎寺線)が延伸開業し、全線開通を果たした。
路線データ
路線距離(営業キロ) : 39.2km
軌間 : 1,067mm
駅数(起終点駅を含む): 27駅
複線区間 : なし(全線単線)
電化区間 : 全線(直流1,500V)
歴史
種類株式会社
本社所在地 日本
新潟県長岡市大字大島町甲578[1]
設立1914年(大正3年)3月3日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業[1]
代表者社長 田中角栄[1]
資本金98,520,000円[1]
発行済株式総数1,970,400株[1]
特記事項:上記データは1957年(昭和32年)8月1日現在[1]。
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計画から開業まで
開業後から廃止まで
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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