越前竹人形
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越前竹人形
作者
水上勉
日本
言語日本語
ジャンル小説
発表形態雑誌連載(三回)
初出情報
初出『文藝朝日』1963年1月号
出版元朝日新聞社
刊本情報
出版元中央公論社
出版年月日1963年7月
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『越前竹人形』(えちぜんたけにんぎょう)は、1963年昭和38年)に発表された水上勉小説。同年に映画化、翌年に舞台化され、その後ドラマ化された。

この作品をきっかけに生まれた同名の郷土玩具「越前竹人形」は、1994年に福井県の郷土工芸品に指定された。(後節参照)
あらすじ大正11年の秋末、福井県(旧越前国武生市の山奥にある寒村・竹神部落に住む竹細工師・氏家喜左衛門が68歳で亡くなった。翌月、後継ぎの一人息子・喜助(21歳)のもとへ「芦原の玉枝」と名乗る齢三十路前と思しき女性が墓参に訪れ、ひとり涙して帰って行った。女のことが気になって仕方がなかった喜助は、翌春芦原温泉街の遊廓「花見家」に玉枝を探し出した。玉枝の部屋には初めて目にする花魁姿の巧緻な竹人形が飾られており、喜助を驚愕させる。父喜左衛門から十年も前にもらったものという。以来喜助も父と同じように玉枝に惹かれ、互いに幾度かの往来を重ねて、その年の夏から二人は同棲を始めた。生き甲斐を得て仕事に励む喜助だったが、夜の共寝を拒絶し続けて玉枝を困惑させる。喜助は、三歳で死に別れた顔も知らない母への憧憬を玉枝に重ね合わせていたのである。そして、その玉枝に対する錯綜した気持ちを、父と同じく手すさびの竹人形に込めて表現する。ところが、仕事の合間に作ったこの竹人形が、郷土民芸展への出品をきっかけに、思いがけず京都へと販路が開かれ、このことが玉枝の人生を予期せぬ運命に導いて行くことになる。半年後、竹人形の仕入れのため、たまたま喜助の留守中に氏家家を訪れた京人形老舗卸元「兼徳」の番頭・崎山忠平に求められるまま、体を許してしまった玉枝は不幸にも男の種を宿してしまう。崎山は玉枝が京都島原の妓楼に出ていた時のなじみ客で、十余年ぶりの偶然の再会であった。四ヵ月後、妊娠に青ざめた玉枝は集金を口実にひとり京都へ出て崎山に自らの苦衷を訴えるが、お腹の子が崎山の子であると容易に信じてくれるはずもなく、旅館で再び乱暴されたうえ、堕胎を引き受けてくれる医者の紹介も、翌日の電話で体良く断られる。結局、伏見向島に住む唯一の肉親である叔母に相談するしかなくなった玉枝は、留守だった叔母の家から、叔母が客引きとして働く中書島のかつらぎ楼に向かう途中、宇治川の渡し舟に乗込んだところで、京都駅から引きずってきた下腹の痛みに耐えられず気を失う。対岸に着いた舟の上で我にかえった玉枝は、微笑をうかべる老船頭から、おりた赤子は自分の裁量で川へ流したと聞かされ、「ご恩は生涯忘れしまへん」と舟板に手を着いて頭を垂れる。竹神部落に戻って四ヵ月ののち、風邪がもとで寝付いた玉枝は医者から結核を告げられ、喜助の看病もむなしく、二ヵ月足らずで息を引き取った。玉枝は臨終の床でしみじみと語る。「…あては、お父さんのお嫁さんになりますのえ。喜助はんの嫁さんにしてもらおと思てここへきましたけど、喜助はんは、あてのことお母はんやいうて、ちっとも嫁さんにしてくれはらしまへなんだ」。父の墓の隣に玉枝を埋葬した喜助はその三年後、謎の自殺を遂げた。玉枝の死後、竹人形の製作を断ち切って白痴男になったとも伝わる。
作品背景
登場人物

主人公喜助の父、氏家喜左衛門のモデルは著者水上の父親[1]と告白している。大工職人だった水上の父は、仕事の合間に煤竹を使って鳥籠や尺八を家で細工していて、子供の頃それらの作業を飽きずに眺めていた[1]という。

また、喜左衛門の恋人・玉枝についても多少のモデルがあり、水上が21歳当時通った小浜市三丁町の遊女が、水上の父のことを知っていた思い出を玉枝に重ねて人物を創造してみた[2]と話す。
竹人形

越前や若狭の村々には、農閑期の手職として竹細工を楽しむ人がいくらでもいたが[3]、この小説執筆当時、越前に今のような竹人形はなく、水上が当地で目にしたものも、どこかの応接間に飾られていた媼翁の置人形(尾崎欽一作)くらいだった[4]。髪は染めた糸だったが、胴体と足に竹を用い、袂にふくらみをもたせた衣は、竹の皮の紋様を使うなどして巧みに表現されていた[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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