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出典検索?: "越前一向一揆"
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出典検索?: "越前一向一揆" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年8月)
越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。
天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。 天正元年(1573年)8月、織田信長の越前侵攻により朝倉義景は攻め滅ぼされ、朝倉氏の旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵された[注 1]。信長は朝倉攻めで道案内役を務めた桂田長俊(前波吉継)を越前「守護代」に任命し、事実上、越前の行政・軍事を担当させた。しかし朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊が守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わなかった。特に富田長繁などは長俊と朝倉家臣時代からの犬猿の仲であったため、長俊を敵視するようになった。 さらに桂田はこれら元同格の者たちに対して無礼で尊大な態度を取ったため[1]、天正2年(1574年)1月、ついに富田長繁は長俊を滅ぼそうと考え越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の土一揆を発生させた。 1月19日、長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し、一乗谷城の攻略に取り掛かった。城主・桂田長俊はこの時失明していて指揮が執れず、さらに一揆の兵力が3万以上と大軍だったことや、長繁の腹心である毛屋猪介の活躍もあり、さしたる抵抗もできないまま討死した。息子の新七郎ら一族は城外に逃亡したが、翌20日には捕捉されて皆殺しにされた[2]。 一揆衆は1月21日には信長が府中の旧朝倉土佐守館に置いていた3人の奉行、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次(溝尾茂朝)を攻めたが、安居景健(朝倉景健)が間に入って調停をしたため和睦。3人は越前を出て岐阜に向かった。 1月24日、長繁はさらに策謀を巡らし、桂田成敗の宴を開くと称して有力者である魚住景固を自らの居城である龍門寺城
1574年
発端
戦況
そして、一揆衆は長繁と手を切り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自勢力の首領とした。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。