越中詩郎
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越中詩郎
Shiro Koshinaka
2007年撮影
プロフィール
リングネーム越中 詩郎
サムライ・シロー
本名越中 詩郎
ニックネーム侍戦士
孤高の侍
ド演歌ファイター
エッチューさん
身長185cm
体重105kg
誕生日 (1958-09-04) 1958年9月4日(65歳)
出身地東京都江東区
所属Office K2
スポーツ歴野球
トレーナージャイアント馬場
ハル薗田
坂口征二
デビュー1979年3月5日
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越中 詩郎(こしなか しろう、1958年9月4日 - )は、日本男性プロレスラー東京都江東区出身。日本工業大学駒場高等学校卒業。血液型B型。
来歴
全日本プロレス入門まで

越中のプロレスとの出会いは小学校時代であり、当時は金曜日の8時からTVで放映していた。ぶつかり合いの迫力に子供心に圧倒された[1]。中学時代に全日本プロレスを見てファンになる[2]。中学時代は音楽にも熱中していたが、曲作りに必要な良いアイデアが出ないため音楽の道は断念した[1]。高校時代は野球部に入り2年目はファースト・3年目はキャッチャーとレギュラーになるも、甲子園に行くことは出来なかった[2]。野球は団体競技であり、自分1人で競技を行って自分で試合に責任を持つことをしたいという越中の志向には合致しなかった[1]。卒業後、電気工事関連の会社に就職するも、プロレスラーへの夢はあきらめきれず、高校時代の野球部の監督からレスリングの監督を通じてジャイアント馬場を紹介されて見習いを経て1978年7月に全日本プロレスに入門する[2]。野球部の監督に相談しようと決意した際は「出来っこないだろう」と道場への紹介を拒否されると思っていたが、実際に思いを打ち明けると監督もかつてプロレスラー志望だったため夢を応援してくれた[1]

見習い期間中はジャンボ鶴田に練習を見てもらい、受け身を毎日500本近く取って基礎の腕立て伏せやスクワットをこなした。厳しい稽古であったが、折角監督に紹介してもらった手前投げ出す訳には行かず、生涯の仕事と思って家族の反対を押し切って飛び込んだ以上、やり切ることにしたという[1]。入門を正式に認めてもらって1ヶ月か2ヶ月経過した頃、当時巡業で毎日のように開催されたバトルロイヤルに出場。百田義浩からシューズを借りて出場したこのバトルロイヤルでは、ただ殴られて投げられてボコボコにされただけであった[1]
デビューから新日本プロレス移籍まで

1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手に公式戦デビュー[2]。越中も大仁田厚の後を継いで、ジャイアント馬場付き人を務めた[2]

大部屋時代、越中はあまり好きでない酒に付き合わされ酒に酔って暴れる仲間達と同じ場所に居させられたことや、体を大きくするために先輩の命令で旅館の飯櫃を無理に食べたことなどを苦労話として後に2019年のインタビューで話している。スケジュールも過酷であり、酷い時は広島での興行が終わった次の日に秋田のリングへ上がるということもあった。デビューしてからというものの脱走したいと思ったことが何度もあり、駅のホームで「移動の電車を待つ際に、東京に逃げ帰ったらどれだけ楽だろうか」と考えることがしばしばであった。しかし逃げるとすぐに見つかるのが目に見えていたため、実際には脱走に至らなかった[1]

鶴田が退寮した際に先輩の多くも海外遠征に行ってしまい、先輩達から寮をまとめてほしいと告げられた。その越中も暫くあても目標も無く馬場の付き人を行っていたが、体重100kgに達したら海外遠征に行かせてやると馬場から約束され、それに向かって精進した。ザ・グレート・カブキからは試合展開の細かい組み立て方を教わり、佐藤昭雄からは若手が底上げして活性化するように発破を掛けられた[1]

1981年2月19日の福島大会で、デビューから245戦目にして後輩相手にようやく初勝利を挙げる。同年8月、越中は三沢光晴のデビュー戦の対戦相手を務め、以後三沢とのカードは「前座の黄金カード」と呼ばれ、注目を集めた[3]

1983年4月22日ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で、三沢を破り優勝[2]。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し[4]、サムライ・シローの名で活躍した[2]。三沢(カミカゼ・ミサワ)とのタッグでメインイベントを張らせてもらうなどレスラーとして破格の厚遇を得たが、移動手段・食事・リングコンディションは劣悪そのものであり、シューズの真ん中に穴が開いていたり不衛生な飲み水で赤痢を起こしたりと散々な目に遭った[1]。同年7月、越中は馬場からの国際電話で「三沢を日本に帰せ。チケットを送るから三沢を空港へ送ってくれ」と告げられ、タッグは解散し、メインを張ることなく、メキシコ・マットで展望を描けなくなった。ジャイアント馬場にアメリカ・マットの紹介を頼むが、何の返事もなく危機感を抱くようになっていき、1985年1月31日、全日本プロレスに対して辞表を提出した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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