越ヶ谷宿
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江戸時代、越ヶ谷宿と周辺街道の配置図。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 越谷宿(福井本陣跡)

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度53分48秒 東経139度46分59秒 / 北緯35.896628度 東経139.783114度 / 35.896628; 139.783114越ヶ谷宿(こしがやじゅく)は、江戸時代に整備された奥州街道および日光街道宿場町(宿駅)の一つである[1]
概要

越ヶ谷宿は、江戸日本橋から数えて3番目[2]の日光街道および奥州街道の宿場町であり、江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。前宿・草加宿から1里28町、次宿・粕壁宿へ2里30町あり、奥州街道(後の日光街道)の整備に伴い成立した。元荒川右岸の越ヶ谷(武蔵国)と左岸の大沢(武蔵国)の二つの町を合わせた範囲の宿場町であった[1]。その規模は千住宿に次いだ。越ヶ谷側には久伊豆神社があり、大沢側には下総国の一の宮香取神社が鎮座していた。治水工事により元荒川の流路が変更されたため、久伊豆神社は元荒川の越ヶ谷宿の対岸となっている。

慶長7年(1602年)に奥州街道・日光街道が整備され始め、元和3年(1617年)の日光東照宮建立以降、領主通行の増大に伴い、道路や宿駅・助郷の整備が進められた。越ヶ谷宿は江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の正式な宿場となった。元荒川の対岸には越ヶ谷の伝馬上の助郷村として、既に慶長17年(1612年)以前に武蔵国埼西郡(埼玉郡)に編入されていた新方庄[3]に含まれる大沢に大沢宿が成立した。越ヶ谷宿の開発は、参勤交代制の制定、日光東照宮の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の両者により完成した。

近隣に河岸場があり、蒲生村(越谷市)に藤助河岸があった。江戸時代以後、明治大正期にも大量の出荷や取引が行われていた。

越ヶ谷宿では火災や地震の被害の記録があり、都市的で濃密な集住であるために大火、また、安政大地震の被害の記録が残されている。
沿革歌川広重『富士三十六景 武蔵越かや在』

背景 安政六年(1858年)刊行。

古代より近世初期まで、越ヶ谷地域は利根川の本流であった現・元荒川を境に、左岸は下総国葛飾郡、右岸は武蔵国埼玉郡(埼(崎)西郡)に区画されていた。現・元荒川、古隅田川、大落古利根川で囲まれた地域は、下総国葛飾郡下河辺荘のうち新方庄に属した[3]南北朝時代までは藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門、下河辺氏によって開発された八条院領の寄進系荘園であった。元荒川以南の地域は、古来より武蔵国埼玉郡に属する。平安時代の長久寛徳年間(1040年?)、野与党の一族、古志賀谷為基や大相模能高が定住し、野与党の氏神久伊豆神社を祀ったと伝えられる[4]久伊豆神社は 、中世武士団・武蔵七党のうち、野与党や私市党の崇敬を受け、後に越ヶ谷の領主的土豪会田家の氏神となる[5]

中世になると、越ヶ谷側は武蔵国埼(崎)西郡、大沢側は下総国葛飾郡下河辺荘(新方庄)となり、現・元荒川は国境であった[3]。そのため、越ヶ谷側は武蔵国の久伊豆神社があり、大沢側には下総国の一の宮香取神社が鎮座していた。また、既に鎌倉時代頃には六斎市の立つ町として栄えていた記述があり、猿島街道、赤山街道が東西南北に貫通する交通の要衝でもあった。このように、越ヶ谷宿は、中世末期から、政治的、経済的、信仰的に中心集落として賑わっていたことから、慶長7年(1584年)頃から奥州往還宿指定へとつながっていった[6]
越ヶ谷宿の開発
奥州・日光街道の開発「奥州街道」および「日光街道」も参照

慶長7年(1602年)から奥州街道・日光街道が整備され始め、元和3年(1617年)日光東照宮建立以降、領主通行の増大に伴い、道路や宿駅・助郷の整備が進められた[7]寛永2年(1625年)、三野宮・大道・大竹・恩間が岩槻藩領になり、寛文2年(1662年)以降、見田方・南百・千疋・四条・麦塚・柿ノ木が東方忍藩領になる[8]。あとの地域はいわゆる「天領」であり、関東郡代の支配地域であった。

奥州道の経路は、「はじめ千住(現・東京都足立区)から淵江(同上)から利根川(現・中川)と荒川(現・元荒川)の自然堤防上を八条(現・八潮市)・大相模・瓦曾根を経て越ヶ谷へという道筋であった」が、慶長17年頃、越ヶ谷辺りの奥州道の整備が進められた[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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