超電磁マシーン_ボルテスV
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超電磁マシーン ボルテスV
ジャンル
スーパーロボット
アニメ
原作八手三郎
監督長浜忠夫
キャラクターデザイン聖悠紀
アニメーションキャラクター:
佐々門信芳金山明博
メカニックデザインメカマン大河原邦男
スタジオぬえ
製作テレビ朝日、東映
東映エージエンシー
放送局テレビ朝日系
放送期間1977年6月4日 - 1978年3月25日
話数全40話
テンプレート - ノート

『超電磁マシーン ボルテスV』(ちょうでんじマシーン ボルテスファイブ)は、1977年6月4日から1978年3月25日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:30(JST)に全40話が放送された、東映テレビ事業部東映エージエンシー制作のロボットアニメ
概要

前番組『超電磁ロボ コン・バトラーV』に引き続き、本作品でも東映テレビ事業部が企画し、制作を日本サンライズ委託するという制作体制が採られている。メインスポンサーとしてポピー(現・バンダイ)が参加しているのも前番組と同様である。

本作品は、『コン・バトラーV』に端を発する「長浜ロマンロボット3部作」の第2作に数えられている。題名の“V”は、前作『コン・バトラーV』の“V”は英字で“ブイ”と読ませるのに対し、本作品ではローマ数字のVで“ファイブ”と読む。オープニングに登場する番組ロゴと、アイキャッチに登場する番組ロゴは異なり、アイキャッチ版はポピーの玩具に用いられることが多い。監督の長浜忠夫の構想メモおよび第1話準備稿の表紙から、それぞれ『グランバッファーA(エース)』『超電磁ロボ・V・クリーガー』という準備タイトルが確認できる。

当初、NETテレビ朝日へと局名を変更する1977年4月の放送開始を前提に、本作品の企画は進行していたと見られている。提供スポンサーを務めていたポピー(現・バンダイ)からの提案によって、本作品の必殺技は銃であることが日本サンライズのスタッフにも伝達されており、1976年末には本作品の作画も開始されていた。ところが12月29日朝に、ポピーが必殺技をにするという重大な変更事項を唐突に通達したことから、その時点までに作られていた作画はもちろん基本設定まで白紙撤回も同然に戻されてしまう。必殺技はポピーによって「天空剣」と命名され、本作品でも総監督を務めることになった長浜忠夫は、作画スタッフや脚本家などへの参考資料として、殺陣師による天空剣の振り付けを、改めて撮影することになった[1]

ストーリー展開においても長浜は、1話完結方式が基本だった前作との違いを強調するために、本作品では父と子の大河ドラマを提案した[1]。この提案を長浜と協議した田口章一によると、これは『母をたずねて三千里』(1976年)の影響で、「母ならぬ父をたずねて」とのことである[2]

それに対し、東映テレビ事業部の部長を務めていた渡邊亮徳は、単なる「お涙頂戴」ものの展開になることを避けるためにも、本作品ならではの切り札を要求した。渡邊の要求に応じるべく、長浜は宝塚歌劇団をヒントに「プリンス・ハイネル」という主人公のライバル格の主要キャラクターを考案した[注 1][1]。また、東映のプロデューサーだった飯島敬によると、主人公らと異母兄弟であるハイネルに対して、最終回で悲劇的な最期を遂げさせることは当初から決定済みだったという。これは「身近にある様々な差別に対する怒りを強烈に引き出し、本作品を通じて差別を憎みそれを是正するのを視聴者に考えて欲しかったからだ」と語っている[3]

そのような紆余曲折を経て、第1話の決定稿が完成したのは1977年3月であり、放送は6月4日という中途半端な時期に開始される運びとなった[1]

長浜によると、本作品はその高いドラマ性により『コン・バトラーV』の視聴層である幼児から小学生のみならず中高生、大人が見ても鑑賞に耐えうる作品を目指したそうである[4]。このような手法は現在では、低年齢層からの反響が悪くなり、低年齢向けロボットアニメのマーチャンダイジングという観点からはマイナスに働く選択であることがわかっているが、田口章一によると1970年代のロボットアニメでは「スポンサーサイドも絶対的な勝算を持っていなかった」ため、特に反対はされなかったそうである[2]

商業的に見ると本作品は、前作『超電磁ロボ コン・バトラーV』には及ばなかった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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