松山千春のアルバムについては「起承転結 (松山千春のアルバム)」をご覧ください。
起承転結(きしょうてんけつ)とは、4行から成る漢詩(近体詩)の絶句の構成を指す。1行目から順に起句、承句、転句、結句と呼ぶ[1][2]。もとの中国語(漢文)では、起承轉合 (現代中国語: 起承?合, ピン音: q? cheng zhu?n he) である[3]。
日本の初等・中等教育においては、本来の意味から転じて、文章の構成として一般的に教授されている[4]。
起承転結による文章は論理的ではないとの指摘がある[5][4][6][7][8](節「批判」を参照)。
文章やストーリーの構成に起承転結を用いることは、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な論理的文章ではパラグラフ・ライティング
(主張→根拠→主張' )[9][10][11]、学術論文ではIMRAD[12]、および映画などの脚本では三幕構成[13][14][15]が主に用いられている (節「「漢詩以外への転用」に対しての比較」を参照)。目次元の楊載 (1271-1323) の著した『詩法家数』は、「起承転結」説を唱えた文献のうち、最古のものであると主張される場合がある。楊載の「起承転結」説は、主に以下のようなものである[16]。
起: 歴史や人事を題材とし、比喩や連想から詠み始めることにより、様々な展開が出来るとする。
承: 「穏健」に作るべきであるとし、突飛、露骨な句であったり、反対に平板であったりすることは避けるように主張している。
転: 読み手を驚かす変化を入れるよう求めている。ただし、「転」の句は、「承」のそれと表裏一体であり、別物であってはならず、互いに応じ、互いに避けるという一貫性がなければならないとする。
結: 「言に尽くる有りて意に窮まる無し」とし、適宜にフェードアウトすることにより、「含蓄」という詩作の目的の一つを達成できるとしている。
唐の詩人、杜甫の詠んだ次の五言絶句の詩[17]が、「起承転結」の例である。
原文書き下し文現代語訳
江碧鳥逾白.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}江碧(みどり)にして 鳥逾(いよ)いよ白く川の水は深緑で鳥はますます白く見え
山青花欲燃山青くして 花燃えんと欲す山は新緑で花は燃えさからんばかりに赤く見える
今春看又過今春 看(みす)みす又た過ぐ今年の春も見ているうちにまたもや過ぎ去ろうとしている
何日是帰年何れの日か 是れ帰年ならん一体いつになれば故郷に帰れる年がくるというのか
また、頼山陽 (1780-1832) の作と伝えられる以下の俗謡も、起承転結の例として認知されている (これには多様なバリエーションがあり、その一つを挙げる)[18]。
起: 大阪本町 糸屋の娘
承: 姉は十六 妹が十四
転: 諸国大名は 弓矢で殺す
結: 糸屋の娘は 目で殺す
頼は、漢詩の起承転結を弟子に理解させるために、この俗謡を用いていたと伝承されている[19]。 国語学者で、武庫川女子大学・言語文化研究所長および同大教授 (当時) の佐竹秀雄は、起承転結による文章の構成について、以下のように定義している (佐竹は必ずしも起承転結の文章構成を支持していない点に注意)[20]。 黒澤明監督作品の脚本を複数担当した脚本家の小国英雄は、ストーリーの構成における起承転結を、以下のように解釈している〔編者注: 一部誤字を修正〕[21]。 そのようなストーリー構成の典型的な例として、4コマ漫画が引用される場合がある[22]。 日本においては、中等教育の段階までに学習する文章のスタイルは、「起承転結」が一般的である。このため、生徒は「日本語の文章は必ず起承転結で書く」という認識を持って卒業している場合が多い。一方で、起承転結は、漢詩の構成にすぎず、論理的な文章を書ける構成ではない[4]として、以下のように指摘されている。 日本語学が専門で高崎経済大学助教授 (当時。後に教授) の高松正毅は、起承転結について、「こと説得を目的とする文章を作成するにあたっては極めて不適切で、ほとんど使いものにならない」と主張しており、「『起承転結』では、文章は書けない」と述べている。「起」「承」「転」「結」のそれぞれの機能の定義が明確でなく、各部分に含まれるべき文が曖昧であることを、高松は問題視する[5]。 高松はまた、起承転結が真に問題であるのは、それが「役に立たない」からではなく、思考に大きな影響を与えるためであるとする。すなわち、文章の論旨とは無関係のように見えることを「転」で突然言い出したり、論旨を「結」に書くために、可能な限り後のほうに記述しようとしたり、文章の構成として絶対に認められない思考様式を定着させると、高松は主張している[5]。 日本語教育が専門で千葉大学国際教育センター准教授の佐藤尚子らは、論理的な文章は論理の一貫性が必要であり、「転」の部分が論理の一貫性に反すると批判している[4]。言語文化学会 ベイン・アンド・カンパニーの日本支社長を務めた経営コンサルタントの後正武は、起承転結は修辞の技法 (レトリック) であり、論理的な正しさとは関係が無く、むしろ修辞に影響されることにより論理的思考の障害になるとしている[7]。 ブーズ・アレン・ハミルトンで主任コンサルタントを務め、バーバラ・ミントの著作を翻訳した山崎(やまさき)康司[23]は、ビジネス文書では、まず結論から書くことが原則であり、その理由の一つは、読む側が多忙であるためとしている。
漢詩以外への転用
起: 事実や出来事を述べる。
承: 『起』で述べたことに関することを述べる。解説したり、それによって起こる問題点を述べたり、感想、意見を述べたりする。
転: 『起承』とは関係のない別のことがらを持ち出す。
結: 全体を関連づけてしめくくる。
起: 主人公の置かれている状態、劇の説明
承: 主人公の置かれている状態にある事件が起こり、これから段々劇が展開して行く過程
転: 一つの劇のヤマ場で結果に赴く為の転化
結: 承、即ち事件とそれによって起こった転化によって出された結果
批判
論理的文章の構成