赫連勃勃
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武烈帝 赫連勃勃

初代皇帝
王朝夏
在位期間
407年 - 425年
都城統万城
姓・諱劉勃勃→赫連勃勃
字敖雲
諡号武烈皇帝
廟号世祖
生年建元17年(381年
没年真興7年8月20日
425年9月18日
劉衛辰
母苻氏
后妃梁皇后
陵墓嘉平陵
年号龍昇 : 407年 - 413年
鳳翔 : 413年 - 418年
昌武 : 418年 - 419年
真興 : 419年 - 425年

赫連 勃勃(かくれん ぼつぼつ、音訛して赫連佛佛とも[1][2])は、五胡十六国時代(大夏・北夏・胡夏)の創建者。匈奴の出身で、劉衛辰の三男である。当初は劉勃勃と名乗り、没後は世祖武烈皇帝とされた。後世の北魏太武帝が卑下して改名したため、『魏書』では赫連屈丐(屈孑)という表記が用いられている[3]

赫連勃勃は後秦から独立して夏の政権を建て、騎馬攻撃により後秦の国力を疲弊させることで滅亡に追い込んだ。その後は東晋劉裕北魏と対立した。晩年は皇位を巡って子の赫連?・赫連倫・赫連昌らが争った。聡明で美しい容貌であったが残虐で信義に欠け、快楽殺人者であったと史書に記される[4]
生涯
幼年

後漢末の南匈奴右賢王去卑の後裔で、現在の山西省北部とオルドスの間で遊牧をしていた匈奴鉄弗部の出身であり、攣?部前趙)・独孤部・破六韓部と同族である。なお、鉄弗とは匈奴の父と鮮卑の母をもつ意であるという[3]

赫連勃勃は父の劉衛辰がオルドスの代来城(現在の内モンゴル自治区オルドス市東勝区)に割拠し、前秦の西単于であった381年に劉勃勃として生まれた。母は苻氏。建元19年(383年)に前秦が?水で敗れると劉衛辰は勢力を伸ばし、後秦からは大将軍・大単于・河西王・幽州を拝し、西燕からは大将軍・朔州牧を拝して懐柔を受け、3万8千の兵力で朔方での独立を目指した[5]。390年-391年(建初4-5年)、劉衛辰は子の劉直力?(勃勃の兄)に北魏の拓跋珪(後の道武帝)を攻めさせたが、撃退されて黄河を渡った所で代来城を占拠された。劉衛辰と劉直力?は奔って逃れたが、劉衛辰は部下に裏切られて殺害され、劉直力?は北魏に捕らえられた。拓跋珪は劉衛辰の領地を手に入れ、部族を殺した[6]。これにより鉄弗部は壊滅した[5]

一方、勃勃は三城郡の鮮卑叱干部へ逃れたが、北魏と対立することを恐れた太悉伏に受け入れを断られた。そこで、後秦の藩鎮である高平の鮮卑破多蘭部の没?干の下へ送り、勃勃はその娘を娶って没?干と義父子関係になった。ちなみに393年、太悉伏は拓跋珪に勃勃を差し出さなかったため、北魏に攻められて後秦に降った。402年、北魏の中山王拓跋遵が高平を攻撃して部落離散し、没?干は勃勃と共に後秦に降って逃れた[7]。なお、後に後秦が高平を奪って没?干に返している。
姚興の部将

後秦の皇帝の姚興は勃勃の容姿や才に心酔して[4]驍騎将軍・奉車都尉・安遠将軍・陽川侯に封ぜた。また安北将軍に昇り、五原公に改封され、三交五部の鮮卑及び雑虜二万余落を統括して朔方郡に鎮した。当初、姚?は勃勃を信任することを警戒して反対していたので姚興も遠慮していた[8]が、やがては北魏に備えるためにも勃勃を封じた。なお、姚興から天興2年(399年)に勃勃の弟の劉文陳は北魏へ降り、宿六斤氏を賜っている。

407年、敗北を重ねていた姚興は北魏と和平を結んだが、北魏に父(劉衛辰)を殺されている勃勃はこれに怒って造反した。勃勃は後秦に八千頭の馬を献じに来た柔然丘豆伐可汗の使者を襲って拘束し、高平の没?干を殺してその部衆を併せ、衆が数万に至ると同年6月、夏后の子孫を名乗り、大夏天王・大単于と称して国号を大夏に定め、龍昇と建元した。
夏成立後

この時、勃勃が建てた夏の支配領域はオルドスと高平付近である。北魏や南涼などの強国とも隣接していたが、特に後秦からの攻撃を避けるために、勃勃は本拠地を定めずに騎馬での遊撃を主な活動としていた[4]。領土の拡大には南方の農耕地帯(隴東隴西関中など)を求めたため、特に後秦を騎馬で襲ってその国力を疲弊させた[5]

407年、勃勃は南涼禿髪?檀の娘に求婚したが、禿髪?檀は断った。怒った勃勃は南涼を掠奪しながら攻撃し、その際に一旦退却して禿髪?檀に追撃させておびき寄せてから陽武下峡に閉じ込めて大破した(陽武の戦い)。南涼の被害は酷く、名臣や勇將の死者は6・7割あったという[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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