赤色空軍
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赤色空軍の国籍識別標として用いられた「赤い星」。縁取りのない初期のもの。

赤色空軍(せきしょくくうぐん)は、ロシア革命後から第二次世界大戦までのソ連空軍である。赤軍の航空部隊として組織された。第二次大戦後、冷戦期に至って明確に分離されたソ連空軍となり、ことさら「赤色」とは呼称しなくなった。
序説

1910年代、ロシア帝国は世界で有数の航空隊をもつ国として知られていた。1917年にロシア革命が発生すると、この帝国航空艦隊は指揮系統に甚大な損害を受けた。その中から、一部は白軍イギリスフランスなどの反革命干渉軍に、一部はウクライナなどの各独立勢力に、そして一部はボリシェヴィキ率いる赤軍に組した。赤軍派の部隊は、陸の「赤軍」、海の「赤色海軍」に倣って「赤色空軍」と呼ばれるようになった。

ロシア内戦は赤軍の勝利の内に終わったが、国内産業は甚大な被害を受けた。新たに結成されたソ連政府は航空兵力の増強をひとつの国家軍事戦略の根幹に据えた。国内での航空産業の復興を図るため、ソ連は英・独・米などの海外の機体を参考に自力での航空機製造に全力を傾けた。

また、赤色空軍はロシア革命期より共産党プロパガンダにしばしば登場した。これは、飛行機が時代の先駆けを告げるシンボルと看做されたためであった。赤の広場上空を飛行したANT-20「マクシム・ゴーリキイ」号、国民的英雄となったテスト・パイロットであるヴァリェーリイ・チュカーラフはその代表格であった。また、大陸間横断や国内横断などの記録作りに国を挙げて取り組んだのも、1930年代の空軍の拡張時代であった。

その結果、1935年から1939年にかけて赤色空軍の拡張は列強国随一となった。その拡張ぶりは、1930年に1000機足らずであった航空戦力が、1938年には5000機を超え、1941年には約15000機に達するほどであった。この時期の開発主力は戦闘機、特に単座戦闘機であった。これは、スペイン内戦ノモンハン事変における戦訓によって、英・独・日に対する戦闘機戦力の重要性を再認識した結果である。I-15I-16ではそれらの国に太刀打ちすることができず、ミグ設計局ヤコヴレフ設計局による設計の新型機に重点が置かれた。一方、爆撃機は、TB-3巨人機を初めとした旧式機の装備のままの状態で、後継機TB-7(Pe-8)の生産をノヴォシビルスクで行っていたものの、新型機への代替は円滑には行かなかった。他方補助ロケットの研究や大口径機関砲の研究では、他国より進んでいたとみられる。ともあれ、軍用機の生産台数は1940年当時で月産750機に達し、これは世界最大数値の実績であった。

この間(1939年11月?1940年2月)に行われたフィンランド侵攻において、赤色空軍は2500機の軍用機を参戦させた。赤色空軍は、ヘルシンキなどの都市を爆撃し、8000tに及ぶ爆弾を投下した[要出典]。だが対空砲火他による損害も多く、参戦した25パーセントが失われた。

赤軍において、地上兵力に対する近接航空支援の中核と認識されていたのは襲撃機航空隊であった。赤軍野戦操典(1940年度版)によれば、襲撃機航空隊は次のような任務を帯びるものとされている。すなわち地上軍に対する空からの支援、戦車及び自動車の行軍縦列への攻撃、戦場や集結地点あるいは街道上での敵兵力の殲滅、そして飛行場、司令部・指揮所、輸送車両、防御施設、鉄道駅及びそこに停車中の列車への攻撃である。襲撃機連隊の装備機は、旧式化した複葉戦闘機I-15bisやI-153を地上攻撃用に改造したものであり、初めて採用した専用の襲撃機Il-2AM38の量産は1941年3月から開始された。しかしIl-2攻撃機のテスト開始の命令が出されたのは1941年5月30日であり、独ソ開戦までに十分な配備と訓練がなされることはなかった。
独ソ開戦
1941年

1941年6月22日、不可侵条約を一方的に破棄し、ドイツがソ連に侵攻した時の東部戦線の赤色空軍は、ドイツ側の推算では7500機(戦闘機3000、爆撃機・攻撃機2100、偵察機600、輸送機ほか1800)で、このほか極東に3000機となっている。しかし実数は12000機以上であったと見られる。これはドイツの東部戦線配備機の2800機の実に4倍以上にあたる。しかしながら、攻撃正面での徹底した航空集中により、ドイツ空軍は完璧な航空優勢を確立し、赤色空軍の開戦一週間の損害は3630機に達した。原因として指揮系統の混乱や偵察力の不足、戦闘飛行に不慣れな農業機や民間飛行クラブのパイロットを短期間の訓練で投入したことがあげられる。ただ大損害を受けた機種の大部は、「I-15」・「I-16」・「SB」等の旧式機で、却って機種転換断行のチャンスを与えられたと言える。開戦当時の第一線軍用機の機種別構成は、戦闘機35%、襲撃機10%、偵察および単発爆撃機33%、双発以上の爆撃機22%であった[1](除く輸送機や連絡機)。結果的に航空支援を欠いた赤軍はドイツ空軍の一方的な攻撃をうけ、ドイツ陸軍の電撃戦の餌食となり、甚大な被害をうけた。1941年7月4日の段階で、最高司令部は各戦線の航空軍司令部宛「大編隊による爆撃機の出撃は厳にこれを禁ずる」と訓令を発している。1つの目標を破壊するためには1個小隊以下、最大でも1個中隊以下での攻撃にとどめ、敵軍にたいする連続攻撃を維持すべし、というのが訓令の趣旨であった。しかし戦力と機材が不足し、空軍と地上軍が協力して戦うという経験も持っていない上、赤色空軍にとって甚だ不利な航空戦を強いられる状況の中では、地上軍への航空支援の有効性は極めて低い水準にとどまっていた。地上部隊との無線連絡がほとんど欠如していたため、空軍と地上軍の連絡は8?12時間が費やされ、とても共同作戦を行える状況ではなかった。各航空隊の司令部が、あらかじめ諸兵科軍の指揮官から様々な指令や作戦計画を受領していたとしても、その中で航空隊に要求されている任務は甚だ具体性を欠き、あるいは極めて漠然としている場合がほとんどだった。例えば「森林地帯を掃射せよ」「街道を攻撃すべし」「襲撃機全機で発進し、…地区の敵を攻撃」等々といった程度でしかない。これは、空軍がどのような攻撃力を持ち、いかなる任務を達成可能であるかについて、諸兵科軍の司令官の多くは貧弱な知識と理解しか持ち合わせていなかったことにより説明される。明確な戦略目標が示されず、結果的に赤色空軍は分散され、航空支援の効果を著しく低めた。陸空共同の作戦プランを実現するには両者の連絡将校が事前に協議する必要があったが、空軍からの連絡者が地上軍の作戦計画策定に参加した事例は、公式文書では1942年秋まで確認されない。

赤色空軍がドイツの装甲車両に有効な対戦車兵器を装備していなかったことも致命的だった。最高司令部が1941年7月11日に発した訓令では、以下のように指摘されている。

「開戦から現在に至る20日の間に、我が空軍は主としてドイツの機械化部隊及び戦車部隊を攻撃の目標としてきた。数百機の飛行機が戦車との戦いに投入されているにも拘らず、しかるべき成果は挙げられていない…」


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