赤羽有紀子
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赤羽 有紀子

2011年ロンドンマラソン
選手情報
フルネーム赤羽 有紀子
国籍 日本
所属ホクレン
生年月日 (1979-10-18) 1979年10月18日(44歳)
生誕地栃木県芳賀郡芳賀町
身長153cm
体重43kg
自己ベスト
5000m15分06秒07
10000m31分15秒34
ハーフマラソン1時間08分11秒
マラソン2時間24分08秒
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赤羽 有紀子(あかば ゆきこ、1979年10月18日 - )は、日本陸上競技長距離走マラソン)元選手・現指導者。かつて現役時代は、実業団チーム・ホクレンに所属していた。

主な実績に2008年北京オリンピック女子長距離走(5000m10000m)日本代表、2011年世界陸上大邱大会女子マラソン5位入賞、2009年日本陸上選手権女子10000m優勝、2011年・2014年大阪国際女子マラソン優勝など。
経歴

栃木県芳賀郡芳賀町出身。栃木・芳賀中学校1年から陸上を始め、真岡女子高校を経て城西大学に進学、日体大出身で箱根駅伝でも活躍した鈴木尚人監督の指示を仰ぎ大学でメキメキと力を付ける。1999年マヨルカユニバーシアードハーフマラソンに出場し、銀メダルを獲得。2001年北京ユニバーシアードでは10000mに出場し、銅メダルを獲得。同大会で複数メダル獲得という快挙を成し遂げる。また、かつて大阪市(現在は宮城県仙台市)のコースで行われた全日本大学女子駅伝対校選手権大会でも、4年連続で区間賞獲得を達成した。

2002年に城西大学を卒業後は、北海道の実業団・ホクレンに入社。2005年3月、大学時代の同級生で元陸上選手だった浅利周平と結婚した。結婚を機に引退するつもりだったものの、ホクレンに慰留されて競技継続を決めた。なお結婚後、夫の周平は赤羽家に婿入りすると共にホクレンのコーチ業を務めることとなる。
ママさんランナーとして

専任コーチである夫のサポートを受け、2005年11月27日に5000mで日本歴代4位となる15分11秒17の好タイムをたたき出すなど、日本のトップ選手へと成長。2006年8月に女児を出産の後も走り続けており、「ママさんランナー」として注目を集めていた[1]

2007年11月には国際千葉駅伝日本代表に選出され、アンカーでキャサリン・ヌデレバアテネオリンピック北京オリンピック女子マラソン2大会連続銀メダリスト・前女子マラソン世界記録保持者)を逆転し優勝。同年12月23日の日本体育大学女子長距離競技会には、10000mで翌2008年の北京オリンピックA参加標準記録を突破する、31分23秒27の好タイムをマークした(シーズン日本最高・当時日本女子歴代9位)。

2008年3月の全日本実業団ハーフマラソン(山口県)では、1時間08分11秒の大会新記録で優勝した(それまでの記録は、2004年アテネ五輪女子マラソン金メダリスト・野口みずきが作った2003年の1時間08分29秒)。
北京五輪代表選出

優勝すれば北京五輪内定となる2008年6月27日日本陸上競技選手権の女子10000mでは、日本女子長距離トラックの第一人者である渋井陽子福士加代子とラスト1周まで競り合った。残り1周の鐘が鳴った後、赤羽が先頭に立ち優勝を目指してラストスパートをかけたが、残り100m過ぎのゴール前の直線で渋井に抜かれ2位であった。それでも赤羽は31分15秒34の自己ベストをマークし、渋井らと共に大会新記録を達成。その2日後の6月29日の女子5000mでも、優勝の小林祐梨子に次いで2位でゴールとなった。

6月30日日本陸上競技連盟理事会において、「ママさんランナー」としては日本陸上競技界で史上初のオリンピック代表入りを果たす。その後、7月13日のホクレン・ディスタンスチャレンジ北見大会の5000mでは、自己ベストと五輪A参加標準記録を突破し、北京五輪では女子5000mと10000mの長距離2種目に出場する資格を手にした。

しかし、北京五輪ではレース本番の約2週間前に、発熱するアクシデントに見舞われる。その影響が尾を引き、8月15日の女子10000mでは32分00秒37の20位に留まり、8月19日の女子5000m予選は15分38秒30で組12着に終わり決勝進出はならなかった。
フルマラソン初挑戦

2008年11月3日東日本実業団対抗女子駅伝に出走後、大阪国際女子マラソンへ初マラソンに挑戦することを表明。なお初マラソンに大阪を選んだ一番の理由は、「全日本大学女子駅伝で4年連続区間賞を獲得した縁起の良い場所だから」とのことであった。

その翌2009年1月25日開催の大阪国際女子マラソン本番では、前半から5kmラップが17分台前半のややスローペースの中、積極的に先頭に立ちレースを引っ張った。30km付近から渋井陽子とのマッチレースになるが、31kmを過ぎてからは更にスパートをかけた渋井についていくことができなかった。結果優勝した渋井とは2分近くの差をつけられ、2時間25分台の2位に留まる。それでもゴール後の赤羽は「楽しかった。次に繋がるレースができた」と満足そうな笑顔を見せていた。
日本選手権初優勝・世界陸上ベルリン大会

2009年5月7日、同年8月開催の世界陸上ベルリン大会の女子マラソン代表へ、最後の5人目で選出された。ママさんランナーとして世界陸上代表及びマラソン代表では、日本陸上界で共に史上初となる。その3日後、5月10日の仙台国際ハーフマラソンでは、1時間8分50秒のタイムで同大会初優勝。また6月25日の日本陸上選手権・女子10000mでも、佐伯由香里・福士加代子らを破って初優勝を果たした。

しかし期待された2009年8月23日開催の、世界選手ベルリン大会女子マラソン本番では、8月上旬に右足裏を痛めたのとレース中に脱水症状を起こすアクシデントが響いて、25km地点を過ぎた後に先頭集団から脱落。完走はしたものの、日本代表4選手では最下位の31位に終わった(女子マラソン団体戦では日本代表で銀メダルを獲得)。

その後再起を期して、2010年1月31日に開催された大阪国際女子マラソンでは、直前に左膝を痛めながらも強行出場。26Kkm辺りまで自らハイペースで先頭集団を引っ張ったものの、怪我の影響からか大阪城公園内の急な下り坂付近で失速。30km過ぎでは足が攣って一回立ち止まり屈伸、苦悶の表情でゴールを目指すも39km手前で夫の周平コーチに止められ、無念の途中棄権となってしまった。

2010年4月25日ロンドンマラソンは、直前の同年4月14日アイスランドエイヤフィヤトラヨークトルの噴火の影響で一時交通が麻痺、開催が危ぶまれるほどだったが本番当日は予定通り決行となる。そのレースでは、33km付近までハイペースの先頭集団についていたがその後遅れ始める。左足に水膨れと爪が剥がれるハプニングがありながらも粘り強く走り続け、自己ベストとなる2時間24分台をマーク、日本女子トップの6位でゴールした。

2010年6月に開催された日本陸上選手権では、6月4日に女子10000mと及び6月6日の女子5000mにそれぞれ出場したが、両種目共に優勝した福士加代子と2位の木崎良子に及ばず3位に甘んじた。2010年7月4日開催の札幌国際ハーフマラソンは、優勝した加納由理らのペースについていけず、1時間13分30秒の7位に留まった。


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