赤穂城
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

映画については「赤穂城 (1952年の映画)」をご覧ください。

logo赤穂城
兵庫県
大手門(高麗門)二層隅櫓[4]
別名加里屋城[5]
城郭構造変形輪郭式海岸平城
天守構造建造されず
築城主浅野長直
築城年1648年慶安元年) - 1661年寛文元年)
主な改修者浅野長直
主な城主浅野家、永井家、森家
廃城年1873年(明治6年)
遺構石垣、堀、本丸庭園、二之丸庭園、門跡
指定文化財国史跡、国名勝(旧赤穂城庭園 本丸庭園・二之丸庭園)
再建造物櫓・門、二之丸庭園(復元中)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒 / 北緯34.7456694度 東経134.3889833度 / 34.7456694; 134.3889833 (赤穂城)座標: 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒 / 北緯34.7456694度 東経134.3889833度 / 34.7456694; 134.3889833 (赤穂城)
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}赤穂城
テンプレートを表示

赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩[6])の藩主が暮らした城。城郭は国の史跡[7]に、本丸庭園と二之丸庭園は名勝[8]に指定されている。日本100名城日本の歴史公園100選にも選定されている。本丸(1)を囲む二之丸(2)と隣接する三之丸(3)。大手門(A=北)を通り、本丸門(B=南)を抜けると本丸に着く。本丸南の石垣と堀
概要

江戸時代、赤穂藩の政庁が置かれた。

赤穂城の前身となる城郭は、池田長政が慶長5年(1600年)に築城したと伝わり、後世に「掻上城」(かきあげじょう)と呼ばれた[9]。これは絵図や発掘調査から、遺構が現存する後世の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている[9][10]。その後も池田家に赤穂郡代として仕えた垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる[11]

正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側の三之丸は二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者近藤正純によってなされた[9][11]

またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の山鹿素行が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。これにより二の丸門周辺を手直ししたと伝わり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[12]

最終的に寛文元年(1661年)[9]に着手から13年かかって完成し、10の隅櫓(すみやぐら)、門が12基、曲輪(くるわ)の延長は2847に及んだ[13]。本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。このことについて城郭研究家の加藤理文は、天守を築ける天守台を持つことが優先され、また天守あるいは天守台を持つことが家の格式を示す典拠としている[14]

明治時代前期に廃城されると建物は破却、一部の石垣のみを残し、土地の大部分は民間へ払い下げられて田畑や宅地に転用された。本丸跡は小学校ほか、公共施設の用地に当てた。旧制赤穂中学が1928年(昭和3年)に設けられて戦後は学制改革を受けて兵庫県立赤穂高校と称し、1981年(昭和56年)まで西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた[10]

大手隅櫓、大手門(高麗門)は1955年(昭和30年)に古写真[15]を参考に再建築されている[9]。1971年(昭和46年)に赤穂城跡が国史跡の指定を受ける[16]と、門・塀・庭園が徐々に再建され、1995年度以降は二之丸庭園の復元整備が段階的に継続している[17]。本丸には本丸門や本丸御殿の間取りを示し、発掘調査で確認された庭園などが復元整備されており、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。
上水道

赤穂城は海岸に近く標高がほぼ1m[6]と低く、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、熊見川(現・千種川)の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水したのは藩主・池田家が治めた1616年(元和2年)である。着工の1614年(慶長19年)から指揮は前出の代官(郡代)垂水勝重がとり、山に取水トンネルを掘ると(切山隧道)、熊見川の水を導水路で引いた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ[18] 、日本三大上水道の一つに数える説もあり[19]、2003年には城下の居住地区で発掘が進むと、現在の地表(標高2m強)から1mほど地下に江戸時代の生活面が確認された[6]。そのさらに下層は1600年代前半に相当する地層(第3遺構面)で、そこから竹を加工した管や木造の桝(ます)が掘り出され、江戸時代の浅野氏治世以前に、上水道システムがあったと判明した。当代の池田藩主(政綱と輝興父子)は旧城内ばかりか、城を見上げる町内へも給水網を整備したことがわかった[6]。この上水道の遺構は整備保存され、歴史的な観光スポットとして公開している[注釈 1]

赤穂城は浅野氏の「元禄赤穂事件」で有名だが、池田氏にも輝興が狂乱し正室などを殺す「#正保赤穂事件」、赤穂城を預かった龍野藩脇坂氏時代にも赤穂城に在番した重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す「#脇坂赤穂事件[注釈 2]森氏時代にも家老の藩政の私物化を疑い、攘夷派の志士たちが森主税(可彝)を暗殺した「#文久赤穂事件」が起きた。
歴史
加里屋城・大鷹城時代

大鷹城[21]は1452?1455年(享徳年間)、岡豊前守光広が加里屋に「古城」を築城[22][要ページ番号]し、この地で初の築城となる[要出典]。赤穂に生駒親正が伊勢国神戸から1585年天正14年)に入府し、石高は桃山・江戸期を通じて当藩最大の6万石[23][要文献特定詳細情報]を与えられたが1586年(天正15年)には讃岐に移され、赤穂一郡は宇喜多秀家の所領となる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef