編集の際は下記をおやめください
ノートで合意せずに出典のある記述の削除、出典の削除。警告されたり、荒らしとみなされたりする場合があります。
出典のない記述の記載。除去されても文句は言えません。
一次資料を直接出典にする事。独自研究にあたります。一次資料は不正確な場合があるので[注釈 1]、専門家による精査を経た二次資料を出典にしてください。
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}
この項目では、史実としての赤穂事件について説明しています。この事件を題材にした物語については「忠臣蔵」および「赤穂事件を題材とした作品」をご覧ください。
赤穂事件(あこうじけん)は江戸時代中期の元禄期に発生した事件で、吉良上野介を討ち損じて切腹に処せられた浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を討ったものである。
事件は人形浄瑠璃・歌舞伎の仮名手本忠臣蔵を始め、数多くの芝居、講談、そして映画やテレビドラマの題材に取り上げられた。
概要
事件の名称歌川芳虎 作「義士四拾七人」
史実としての本事件を指す用語としては、「赤穂事件」で統一されている[2]。一方で、「正保赤穂事件」[注釈 2]、「文久赤穂事件」[注釈 3]と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる。
赤穂事件を扱った創作物については、人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。
吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士の事を赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。 それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人の事を赤穂浪士と呼ぶ事が多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がこれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである[3]。(ただし先行作にも使用例あり[4])。
このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある[5]。
なお『和名類聚抄』の「播磨国郡郷考」では赤穂は「阿加保(あかほ)」という表記である[6]。赤穂事件の関連では1913年(大正2年)の「教育画集赤穂義士」の表紙のふりがなも「あかほぎし」となっており、城の明け渡しの文も「アカホノシロワタシ」となっている[6]。この点に関しては旧仮名遣いの「あかほ」を「あこう」と読んでいたという説がある[6]。
事件の概要詳細は「#赤穂事件の経過」を参照「仮名手本忠臣蔵三段目」、歌川国輝
この事件は元禄14年3月14日 (旧暦)(1701年4月21日)、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも[注釈 4])に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由の詳細は不明である(詳細後述)。
事件当時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所柄もわきまえずに刃傷におよんだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は大激怒、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易されたが、吉良に咎めはなかった。
そのため浅野のみ刑に処せられた事に家臣達は反発、筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[7]。
一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり[8]、吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[8]、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった[8] 。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。
吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑えるために彼らと二度の会議を開いている(江戸会議、山科会議)。
しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、お家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧・赤穂藩士(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[9]。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた[10](神文返し)。
そして元禄15年12月14日 (旧暦)(1703年1月30日)、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。
四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている(詳細後述)。
寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。
事件の余波
「義士」論争詳細は「#討ち入りに対する見解」を参照
赤穂事件が起こるとその是非をめぐって儒学者たちの間で論争が巻き起こった。主な論点は赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事で、これは浪士達の吉良邸討ち入りが主君の為の「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[11]。この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[12]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[12]、これが問題になったのである。
この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり[13]、論争は幕末まで続いた[14]。
「忠臣蔵」の誕生詳細は「忠臣蔵」を参照
主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった武士道を彼らが体現したからである。
赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が歌舞伎、人形浄瑠璃、講談、戯作などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。