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赤瀬川 原平
(あかせがわ げんぺい)
ペンネーム赤瀬川 原平
(あかせがわ げんぺい)
尾辻 克彦
(おつじ かつひこ)
誕生赤瀬川 克彦(あかせがわ かつひこ)
(1937-03-27) 1937年3月27日
日本・神奈川県横浜市
死没 (2014-10-26) 2014年10月26日(77歳没)
日本・東京都町田市
墓地東慶寺
職業作家・随筆家・美術家
国籍 日本
代表作『父が消えた』(1981年)
『雪野』(1983年)
『新解さんの謎』(1996年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1981年)
野間文芸新人賞(1983年)
親族赤瀬川隼(兄)
赤瀬川晴子
赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、本名:赤瀬川 克彦(あかせがわ かつひこ)、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本の前衛美術家、随筆家、作家。
純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある。「尾辻」は父方の親戚の苗字に由来する[1][要ページ番号]。
人物は帽子作家。また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。姪(隼の長女)は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人[2]。
2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めていた。 父親は鹿児島県出身で倉庫会社勤務のサラリーマン。「赤瀬川骨茶」という俳号で俳句も詠んだ。母親は東京府出身。原平は6人兄弟姉妹の下から2番目。兄弟はみな芸術的なことが好きで、原平はとくに絵が好きだった。一家は父親の転勤であちこちに移り、原平は幼稚園時代から大分県大分市で育つ。 幼少は内気な引っ込み思案で寝小便の癖がなかなか治らず、完全に治ったのは中学3年だった。「おねしょは中学2年生まで毎晩のようにしていて、自分の運命を憎み、死んでしまいたいと思っていた」というコンプレックスが自意識を目覚めさせたと書いている[3]。 1945年、大分市立金池小学校3年生の時に敗戦。父親は職を失い、母親の内職を一家で手伝う。小学生時代、絵が好きな雪野恭弘(のち画家)と親友になる。雪野とは大分市立上野ヶ丘中学校時代、そして武蔵野美術学校も同窓として交際が続く。中学時代の転校生には、のちにソ連問題の専門家になった木村汎(山村美紗の弟)がいる。 5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていた。原平が中学生の時、磯崎が創立していた絵の同好会「新世紀群」に雪野とともに参加。ここで4歳年上の吉村益信と知り合う。 大分県立大分舞鶴高等学校に進学して2か月後、一家は名古屋へ引越し、愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。油絵を習う。同級生に荒川修作、岩田信市
経歴
生い立ち
吉村益信の勧めで、吉村が進学した武蔵野美術学校油絵科に進む。だが仕送りは2か月で止まり、サンドイッチマンのアルバイトで食いつなぐ。アルバイト仲間からは本や映画について学んだ。
1956年には、上京していた姉・晴子と一緒に住み、姉の誘いで砂川基地反対闘争に参加する。 「心はいつもアヴァンギャルド」といい[3]、1958年、第10回読売アンデパンダン展に初出品。以後、1964年に同展が終了するまで出品を続ける。詳細は『反芸術アンパン』(ちくま文庫)を参照。 1959年には、数年来の持病の十二指腸潰瘍の手術のため名古屋に戻る。そこで伊勢湾台風に遭遇し、九死に一生を得る。 1960年、吉村の誘いで「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加。赤瀬川は荒川修作をグループに紹介し参加させた。篠原有司男の母親に姓名判断をしてもらったところ「下の名前の画数が足りない」といわれ、「克彦」よりさらに画数が少ない「原平」をペンネームとして採用[1][要ページ番号][4]。赤瀬川は「ヴァギナのシーツ」など、ゴム・チューブを素材としたオブジェを製作した。1962年には、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選。 1962年に、松田政男・山口健二・川仁宏らが企画した「自立学校」に学生として参加[5]。 1963年、高松次郎・中西夏之とともにハイレッド・センターを結成。
前衛芸術