赤橋登子
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赤橋 登子(あかはし とうし[1][2] / なりこ[2][注釈 1]徳治元年(1306年) - 貞治4年5月4日1365年5月25日))は、鎌倉時代から南北朝にかけての女性。室町幕府初代将軍足利尊氏正室
系譜

北条氏一族では得宗家に次ぐ高い家格を有した赤橋家の出身。北条久時の娘。兄には、鎌倉幕府の最後の執権となった守時、最後の鎮西探題となった英時などがいる。

夫は足利尊氏(高氏)。息子に室町幕府第2代将軍・足利義詮、初代鎌倉公方足利基氏、娘に鶴王がいる。
生涯

足利氏は幕府では北条氏に次ぐ高い地位にある有力御家人であり、代々の当主が北条氏一族と婚姻関係を結んできた。登子は足利氏の跡取り息子で、自身と同じく北条重時の玄孫であった高氏(のちの尊氏)に嫁ぐ。登子が高氏に嫁いだ時期はわかってはいないが、元徳2年(1330年)に嫡男千寿王(後の義詮)を産んだ。

元弘3年(1333年)に夫・高氏が、後醍醐天皇の呼びかけに応じた叛乱勢力の鎮圧のため総大将として出陣した際には、千寿王とともに人質として鎌倉にとどめ置かれたという(『太平記』)。その後、夫が叛乱勢力に合流すると母子は鎌倉を脱出したが、入れ違いに新田義貞が率いる叛乱軍によって鎌倉は攻め落とされ、実家赤橋家をはじめ北条氏一族は滅亡している。執権であった兄、赤橋守時は、新田義貞の軍に敗れ自害。鎮西探題であったもう一人の兄、赤橋英時も、島津氏、少弐氏、大友氏までもが、登子の夫、高氏が六波羅探題を攻めぼしたという知らせを聞き裏切ったのもあり、自害した。

尊氏が室町幕府を樹立して権力を握ると、御台所として従二位に叙せられた。暦応3年(1340年)には、後の初代鎌倉公方となる、足利基氏を産んでいる。延文3年(1358年)に尊氏が死去すると「大方殿」と呼ばれた。「大方禅」とも呼ばれていることから、夫の死に殉じて出家したらしい

貞治4年(1365年)5月4日に死去。享年60。戒名は登真院殿定海大禅定尼。京都仁和寺等持院に火葬により埋葬された[4]従一位の位階を追贈されている。
人物

『諸家系図纂』に収める北条氏の系図には「義詮卿并基氏宮妃等母儀」とあり、少なくとも二男一女に恵まれたことになる(よって、これが義詮・基氏・鶴王のことを指すものとみられる)。そのほかにさらに一男三女があったとする説もある
[5]

義詮や基氏ら正室所生の息子を守るために尊氏の庶子である足利直冬の認知に極力反対したとされており[4]、直冬ら尊氏の庶子を虐待した冷酷な母親であったとの評もある[6]。これは、実家である北条家を嫁ぎ先の足利家に滅ぼされるという過酷な経験をした登子が、北条の血を残そうと、自らが産んだ子に幕府を継承させようとしたというものである。しかし、直冬ではなく義詮を後継者に据えたのは、後述するような赤橋氏の人脈を念頭に置いた、尊氏自身の意志があったともされる[7]。また、家督を継がせなかったものの、そもそも直冬と尊氏の関係性も、『太平記』に描かれているほど険悪ではなかったのではないかとも思われる[8]

正親町家との関係と、直仁親王の立太子

北朝では、貞和4年(1348年)に、光明天皇が甥の崇光天皇に譲位し、直仁親王が立太子された。直仁親王は、花園法皇の子とされている。親王の立太子には、花園法皇の甥である光厳上皇の強い意志があったとされる。直仁親王の母親は宣光門院実子という女性であり、彼女の兄弟には北朝の重臣で歌人として有名な正親町光蔭がいる。彼の妻は、赤橋家の女性であり、登子の姉妹なのではないかと言われている。光蔭の従兄である桐院公賢の日記、『園太暦』にも「宰相中将(足利義詮)の母と前大納言(正親町公蔭)の妻は姉妹だ」という記述がある。つまり、直仁親王の立太子には、光厳上皇が足利氏との関係を重視した結果であるとの指摘もある[9]。[脚注の使い方]
注釈^ この頃は女性に関する史料が乏しく、今日、その名の読みが分からぬ場合は「彰子」(平安時代)を「しょうし」と読むように完全音読みで読まれるのが通例である。『朝日日本歴史人物事典』では藤原登子(平安時代)と同じ「なりこ」とも併記されている[2]角田文衛『日本の女性名』にも「なりこ」とある[3]。)。尚、吉川英治の『私本太平記』及びそれを原作とした大河ドラマ『太平記』では「とうこ」と呼ばれていたが、これはいわゆる重箱読みで正確とは言い難い。

出典^ 安田 1985.
^ a b c 西尾 1984.
^ 角田文衛『日本の女性名』国書刊行会、2006年、178頁。 
^ a b 瀬野 2005, p. 176.
^ 田辺 2002.
^ 谷口 1997.
^ 田辺旬、野口華世『鎌倉北条氏の女性ネットワーク』小径選書、2023年、222‐233頁。 
^ 亀田俊和、杉山一弥『南北朝武将列伝 北朝編』戎光詳出版、2021年、206‐217頁。 
^ 家永遵嗣『「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」(桃崎有一郎・山田邦和 編『室町政権の首府構想と京都』〈平安京・京都研究叢書4〉)』文理閣、2016年。 

参考文献

瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 464205233X。 

櫻井彦; 樋口州男; 錦昭江 編『足利尊氏のすべて』新人物往来社、2008年。 

谷口研語 著「足利尊氏の正室、赤橋登子」、芥川龍男 編『日本中世の史的展開』文献出版、1997年。


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