赤松満祐
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 凡例赤松 満祐
時代室町時代前期 - 中期
生誕弘和元年/永徳元年(1381年
死没嘉吉元年9月10日1441年9月25日
別名三尺入道
諡号慈照院殿
戒名性具
官位兵部少輔左京大夫大膳大夫
幕府室町幕府侍所頭人、播磨備前美作守護
主君足利義満義持義量義教
氏族赤松氏
父母父:赤松義則、母:不詳
兄弟満祐、祐尚、則友、義雅則繁竜門寺直操
教康[1]、若松丸、乙松丸
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赤松 満祐(あかまつ みつすけ[注釈 1])は、室町時代中期の武将守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨備前美作守護。赤松義則の嫡男[2]。兄弟に義雅祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。
生涯
家督相続

赤松義則の子として生まれ、元服時に室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱の授与を受けて満祐と名乗る。父の代理として早くから政治の表舞台にあり、第4代将軍・足利義持(義満の嫡男)の代になって、応永18年(1411年)から応永20年(1413年)に侍所頭人を務めた。また応永21年(1414年)からは父に次いで左京大夫に叙任され、守護職を代行している(『美作木山寺文書』)[3]

応永34年(1427年)に亡くなった父の跡を継いだが、前将軍・義持(当時の将軍は第5代義量)が満祐の所領である播磨を没収して寵愛する側近の赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとすると、満祐は京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、一族を集めて合戦の準備を始めた。これに激怒した義持は残る備前・美作両国も奪ったうえで追討令を出すが、討伐を命じられた一色義貫らが出兵を拒むなど混乱が続く。翌年に突如持貞と義持の側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。
義教時代

応永35年(1428年)1月に義持が死去、その弟の足利義教が第6代将軍となると、反乱を起こした北畠満雅討伐軍に加わり、満雅の子・教具と幕府を和睦させて北畠家取次を務めた。同年から永享4年(1432年)まで侍所頭人に再任、翌年に播磨の国一揆が起こると播磨に下向、反乱を鎮圧した。永享4年の大和永享の乱では実弟の義雅を大将にした軍勢を派遣している。

また正長2年(1429年)には赤松家の本拠の播磨で播磨の土一揆が起こった。これは前年の満祐の家督相続時、幕府との合戦を決意して軍備を整えていたとき、大量の兵糧を徴発したために起こったとされるが、京都で正長の土一揆が起こって侍所別当として鎮圧に当たっていた満祐は[注釈 2]、急遽播磨に下向して鎮圧に努めている。

義教とは当初良好な関係であり、宿老の1人として義教の諮問に応じたり、義教の邸宅訪問を受けたり、永享10年(1438年)11月に3度目の侍所頭人を任されるなど幕府内の長老格として権勢を振るうが、やがて義教は有力大名を誅殺しだすと、永享10年3月には家臣3名が義教によって殺害され(『看聞御記』3月15日条)[5]、永享12年(1440年)3月17日に弟の義雅の領土が没収されて一部が遠縁の赤松貞村(持貞の甥)に与えられた[注釈 3]。満祐も領地を没収されて貞村に与えられると言う風聞が起こるなど[注釈 4]、次第に対立の色を深めていった。
将軍殺害

義教は満祐に限らず有力守護大名家に介入し、管領の斯波氏畠山氏の他に京極氏土岐氏一色氏四職にも介入した。永享12年(1440年)5月15日には丹後若狭三河山城の四か国守護兼尾張知多郡分郡守護の一色義貫を、翌16日には伊勢守護土岐持頼を相次いで殺害し、家督と守護職を没収してその一族や他の大名に分け与えるという強硬策に出たため、満祐は不安を次第に強めていった[8]。9月22日にはついに侍所別当の職を罷免させられたため、幕府への出仕もしなくなった。このため、義教と満祐の対立が先鋭化し、不穏な噂も絶えなかったという[注釈 5]

嘉吉元年(1441年)6月18日、加賀守護富樫教家は突如として義教の勘気を蒙り守護を解任され、加賀守護は僧になっていた弟の富樫泰高に与えられた。それからわずか6日後の6月24日、満祐は結城合戦の祝勝会と称して義教を自邸に招き、嫡子の教康と弟の則繁に命じて義教を殺害した。
最期.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに嘉吉物語の原文があります。

その後は京都における赤松一族の屋敷を焼き、領地の播磨へ逃れて足利直冬の孫とされる足利義尊を新将軍に奉じて対立する[9]。しかし『赤松盛衰記』では赤松家中内部でさえ義尊擁立には必ずしも賛成していなかったことを示している。同書では義尊を迎え入れた後、満祐は義尊を利用して味方を増やそうとした一方で、東坂本の定願寺で酒宴猿楽連歌詩歌・管弦・芸能など遊興の限りを尽くすのを黙認したとされている。満祐はあくまで義尊を傀儡として利用したのであり、武将として陣頭に立つ事は期待していなかったとされている[10]

幕府は強力な独裁者である義教を突然失って混乱しており、また義教の息子らはいずれも幼く有力一族も欠けていたため危機的状況にあった。しかし管領の細川持之は義教の嫡子・千也茶丸(足利義勝)を立て、対応策を必死に練った。このとき満祐が持之宛に挑戦状を出したとされるが、『赤松盛衰記』にしか記録がなく、創作とされる[11]

幕府の持之は細川持常山名持豊(宗全)、赤松貞村らをはじめ、西国の河野氏吉川氏などを動員して赤松領に侵攻させた。教康・則繁らの善戦で一時は幕府軍を圧倒したが、赤松討伐の綸旨が出されて満祐は朝敵とされた[注釈 6][注釈 7]。播磨だけでなく美作・備前などにも山名軍ほか諸軍が攻め寄せて赤松家を裏切りあるいは敗北したため、満祐は防御力のほとんどない居城の坂本城から山城の城山城現・兵庫県たつの市)に籠もった。


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