赤松氏
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赤松氏
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五七 の 桐(ごしち の きり)
本姓村上源氏季房流
家祖赤松家範
種別武家
華族男爵
出身地播磨国佐用郡佐用庄赤松村[1][2]
主な根拠地播磨国・備前国 ほか
著名な人物赤松円心
赤松満祐
赤松政則
支流、分家摂津有馬氏武家華族
別所氏(武家)
上月氏(武家)
宇野氏(武家)
小寺氏(武家)[注 1]
山田氏(武家)
新免氏(武家)[注 2]
福原氏(武家)[注 3]
石野氏(武家)
赤木氏 (武家)
凡例 / Category:日本の氏族

赤松氏(あかまつし)は、武家華族だった日本氏族の1つ。村上源氏の一流で鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を領した豪族である。関ヶ原の戦いの敗北で一族は離散したが[3]、その子孫の一人則良明治期に海軍高官となり、勲功により華族の男爵に叙せられた[4]



歴史
出自

尊卑分脈』などによると、赤松氏は村上源氏・堀川大納言定房源師季に始まり、師季の子の源季房(季方とも)が播磨国佐用荘に配流され、その後裔の則景が建久年間に北条義時の婿になった縁で赤松村地頭職に補任されたことから、嗣子家範が赤松氏を称したと言われている。しかし、季房から則景まで7代もあることから、名和氏同様に信憑性に関する賛否がある。(ただし、悉くの書物に村上源氏と記されているため、暫くこの説に従う。また、源季房(久寿3年/保元元年(1156年)に死去。)が源師季(文治4年(1188年)生まれ)の子というのはあり得ず、源季房は源顕房(長元10年/長暦元年(1037年) - 寛治8年/嘉保元年(1094年))の子とも云われる。) また、三河国作手奥平氏は赤松氏の末裔と称した。

赤松円心元弘の乱において、後醍醐天皇皇子護良親王(大塔宮)の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨国守護職に補任された。しかし、有力な後ろ盾だった護良親王が皇位簒奪を企てたとして失脚するのに前後する形で播磨国を没収されたことから、新政から離反した足利尊氏に味方し、尊氏が一時形勢不利に陥り、九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡白旗城で釘付けにして、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いにおいて尊氏を勝利に導く遠因を作った。

円心の三男・則祐室町幕府2代将軍足利義詮管領細川頼之を補佐し、京都が南朝方に一時占拠された際には、幼い足利義満を自身の居城に避難させて保護するなど、室町幕府の基礎固めにも貢献する。その功により坂本城を守護所として播磨1国の守護に任じられると共に、室町幕府では京極氏一色氏山名氏と並ぶ四職家の1つとなって幕政に参画した。

円心の長男範資には摂津国、次男の貞範には美作国、三男の則祐には備前国の守護職が与えられ、合わせて4ヶ国の守護となる。但し、摂津守護は範資の子・光範の代に召し上げられ、以後、範資の系統は庶流となり「七条赤松家」を称した。

七条家は後裔の赤松義村赤松政則の後継となり、宗家への復帰を果たすこととなる。
嘉吉の乱「嘉吉の乱」も参照

15世紀に入ると、永享元年(1429年)に播磨の土一揆が発生するなどその支配力に次第に翳りが見え始めた。更に6代将軍・足利義教の頃には赤松満政赤松貞村といった庶流を優遇し、本家である赤松満祐教康父子を冷遇し始めた。嘉吉元年(1441年)、満祐父子は義教を自邸で暗殺し、播磨に帰国した。この嘉吉の乱により山名持豊(宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐は城山城で自害し教康も殺された。三国の守護職は山名氏が承継した。また、文安2年(1445年)に満政が宗全に討たれ、享徳4年(1455年)には赤松則尚が挙兵したが宗全に敗れ自害して果てた。

長禄元年(1457年)、赤松氏の遺臣が禁闕の変(嘉吉3年(1443年))で後南朝に奪われた三種の神器神璽を取り返して南朝皇胤を討った(長禄の変)。これにより赤松政則(満祐の従孫)の時に加賀半国守護となって再興を果たした。応仁の乱では細川勝元に与し、その功により播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲き、長享2年(1488年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐した。本拠を置塩城に移したのもこの頃である。
戦国時代と下剋上置塩城跡地(城山)長福山松安寺跡地にある赤松晴政義祐

戦国時代に入ると政則が従三位に昇進するなど全盛期を迎えた。しかし明応5年(1496年)4月に政則は急死した[5]。跡を継いだのは赤松分家の七条家出身の婿養子である赤松義村であったが、幼少のために守護代の浦上氏別所氏らの実力が高まり、赤松家当主の大名権力に蔭りが見え出した。

成長した義村は官僚機構を整備し、独自の権力を強化していく政策を実施して赤松家の戦国大名化と大名権力の強化を図った。しかし備前国守護代の浦上村宗との間に確執が生まれ、永正15年(1518年)から義村と村宗の間に内紛が起こった[6]。この内紛は村宗が勝利し、義村は村宗の圧力を受けて嫡子の晴政に家督を譲らされた[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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