赤松村秀
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、播磨の赤松一族について説明しています。摂津の赤松一族については「有馬村秀」をご覧ください。

 凡例赤松村秀
時代戦国時代
生誕明応2年(1493年
死没天文9年(1540年
戒名高新軒松嶺性秀
官位下野守
氏族赤松氏→宇野氏
父母父:赤松政則、養父:宇野政秀
兄弟村秀、小めし
政秀、平井祐利、川島頼村
テンプレートを表示

赤松 村秀(あかまつ むらひで)は、戦国時代武将播磨国龍野鶏籠山城主。
略歴

出自に関しては2通りの説がある。1つ目は明応2年(1493年)、播磨の守護大名である赤松政則の子として生まれるが、庶子であった[1]ために一族の支持を得られず家督相続することができなかったため、赤松家は娘婿の赤松義村が継ぐこととなり、塩屋城主・宇野政秀の養子となり[2]、後に政秀が龍野城を築城すると、その城主となったという物である。尚、義村からは偏諱(「村」の字)を賜っている。

2つ目は政則の子ではなく、龍野赤松氏の赤松則貞の実の孫であるという説で大永5年(1525年)には祖父の則貞を自ら龍野城内で殺害して龍野赤松氏を継承したという[3]

村秀は、赤松本家の補佐に努め、小寺氏や宇野氏と協力し浦上氏との抗争に貢献し、天文9年(1540年)に死去。享年48。跡を子の政秀が継いだ。
脚注^ 『赤松円心・満祐』吉川弘文館。306頁。
^ この説の場合は政則は生まれてすぐに村秀を政秀に託している。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。306頁。
^ 『鵤荘引付』

参考文献

高坂好
『赤松円心・満祐』吉川弘文館人物叢書)1970年。


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:4568 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef