凡例赤松 則尚
時代室町時代後期
生誕応永32年(1425年)
死没享徳4年5月12日(1455年6月26日)
別名通称:彦五郎、常陸彦五郎
氏族赤松氏
父母父:赤松祐尚
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赤松 則尚(あかまつ のりなお(のりひさ))は、室町時代中期の武将。父は赤松祐尚[1](祐之)。嘉吉の乱の首謀者である赤松満祐は伯父に当たる。 嘉吉の乱では伯父の満祐に従って播磨国で幕府軍と戦ったが、9月に満祐が自害すると、則尚は播磨から逃亡した。その後、各地に潜伏して御家再興を目指し、文安元年(1444年)には赤松満政や赤松祐則
生涯
享徳3年(1454年)、宗全と対立する8代将軍足利義政が山名討伐を命じた。勝元の取り成しで命令は中止、義政は宗全を幕政から遠ざけて但馬への蟄居を命じた。これを則尚は好機ととらえて、一族や遺臣を集めて播磨で再び挙兵する。だが、享徳4年(1455年)春までに山名軍によって居城の檀徳山城
を落とされて反乱は鎮圧され、則尚は備前国に敗走した。しかし山名軍の追跡は厳しく、備前の鹿久居島において一族と共に自害し、則尚の首級は法雲寺に晒された。享年31。