あかぎ はるえ
赤木 春恵
本名小田 章子(おだ あやこ)
別名義赤木 春生(旧芸名)
生年月日 (1924-03-14) 1924年3月14日
没年月日 (2018-11-29) 2018年11月29日(94歳没)
出生地 中華民国、吉林省長春県
死没地 日本、東京都府中市
国籍 日本
血液型B型[1]
職業女優
活動期間1940年 - 2018年
配偶者栄井賢(1947 - 1991年)
著名な家族野杁俊希(孫)[2]
公式サイト株式会社オフィスのいり
主な作品
テレビドラマ
『水もれ甲介』
『3年B組金八先生』
『ああ家族』
『ああ結婚』
『ああ母さん』
『男はいらない』
『痛快!バツイチ・トリオ 女だけの便利屋事件簿』シリーズ
『温泉名物女将!湯の町事件簿』シリーズ
『利家とまつ?加賀百万石物語?』映画
『ペコロスの母に会いに行く』
受賞
高崎映画祭
最優秀主演女優賞
2013年『ペコロスの母に会いに行く』毎日映画コンクール
女優主演賞
2013年『ペコロスの母に会いに行く』
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赤木 春恵(あかぎ はるえ、1924年<大正13年>3月14日[1] - 2018年< 平成30年>11月29日[3])は、日本の女優。本名、小田 章子(おだ あやこ)[4]。旧芸名、赤木 春生(あかぎ はるみ)。身長152cm、血液型はB型。自身の個人事務所でもあったオフィスのいりに所属。日本喜劇人協会相談役。満州長春県(現・中華人民共和国吉林省長春市)出身[5]。東京都府中市に居住していた。 父は南満州鉄道の産婦人科医だったが、赤木が3歳の時に死去した[5]。 1933年に帰国して京都に住み[5]、女学校卒業後の1940年に松竹にニューフェイスとして入社し、同年に映画『二本松少年隊』でデビュー[6]。この時の芸名は赤木春生(あかぎ はるみ)だった(名付け親は映画監督の伊藤大輔[7])。 1943年、大映へ移籍、1945年、松竹で助監督をしていた兄が設立した慰問劇団に参加するため大映を退社し、満州各地を巡業した(この時に森光子と知り合い、森が結核で療養し音信不通となっていた時期を除いて深い親交があり、本人は「ソウルメイトのようなものですね」と振り返っている。)。途中で兄が現地召集されたため、劇団の座長となり満州全土を慰問で巡った。終戦時にはハルビン市にいたが、アパートのような所で仲間数人と暮らしながら、街路で長襦袢など身の回りの物を売って食い繋いだ。満州ではソ連兵による日本人女性に対する性暴行事件が激発していたが、実際に赤木らの部屋をソ連兵が訪ねて来た際は、女優の機転で「一番汚い衣装を身にまとって、顔はドーランを塗って影をつけて。頭は粉おしろいとか練りおしろいで、サッサッサッとハケで」「とても汚い女たちの集まり」「変なおばあさん」に変装、ソ連兵は『ニェ・ハラショー(良くない)』と言って立ち去り事なきを得たという。ソ連軍撤退後に中国共産党の八路軍が入って来たため入れられた現地の収容所では、藤山寛美らと泉鏡花の『婦系図』を演じた。ダンスホールで働いた事や、発疹チフスに感染し生死の境を彷徨った事もあった。1946年10月、葫芦島からの日本人送還船で博多港に帰国[5][8]。 その後、大映へ復帰した際、片岡千恵蔵から「春生では男か女か分からないから、春恵にしたらどうか」と勧められ、芸名を改める[7]。
来歴・人物
1959年、森繁久彌主催の森繁劇団に参加するためにフリーとなる。
1973年に公開された「海軍横須賀刑務所」では勝新太郎の母親役を演じた。
1974年の『四季の家』初出演以降、橋田壽賀子や石井ふく子プロデュース作品への出演が増加。
1979年からは『3年B組金八先生』にて当時としては珍しかった女性校長の君塚美弥子役でレギュラー出演し、当たり役を得る(レギュラー降板後もゲスト出演しており、教育関係者から講演も頼まれたほどだった)。
1983年、著書『おばあちゃんの家事秘伝』がベストセラーになる。
1990年からは『渡る世間は鬼ばかり』がスタートし、角野卓造演じる勇の母親であるキミ役で出演し、嫁をイビり、何かに付けて文句を言ったり難癖を付ける憎まれ役が評判を呼び、再び当たり役となった。2005年に「舞台の仕事に専念したい」との本人の意向で、一時的に降板となるが、途中で復帰しており、ほぼすべてのシリーズに出演した。
2007年(平成19年)秋に乳がんが見つかり、同所属事務所所属で公私共に仲が良かった後輩で友達でもある大空眞弓に相談して病院を紹介してもらい、年末に左乳房を全摘出して完治後に再び渡鬼最終シリーズ最終回で復帰し、2013年SP(ドラマ遺作)まで出演を続けた。
2011年(平成23年)6月13日には、コロッケの東京・明治座7・8月舞台公演の製作発表会に座長のコロッケと共に出席して会見を開き、親交の深いコロッケの舞台を最後に「これで私の卒業公演にしたい」と舞台からの引退を宣言した(理由は「現在は健康だが、いつご迷惑を掛けるか分からない。余裕のあるときにお別れした方がいいと思った。」と述べている)。舞台エンディングでは親友の森光子から花束と共に届いた「戦争のつらい経験を乗り越えてきたからこそ、ここまで頑張ってこられました。いつも二人で支え合って来たわね。