この項目では、幕末に存在した赤報隊について説明しています。1987年に起こったテロ事件については「赤報隊事件」をご覧ください。
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赤報隊(せきほうたい)は、江戸時代後期の幕末に結成された草莽隊で、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。 ※本節と次節において、日付は旧暦を用いる。
経過
結成から処刑まで
相楽総三は、薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、下野や相模、江戸市内において旧幕府軍に対する挑発的行為として工作活動などを行い、これが戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いのきっかけにもなった。
赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得た。しかし、新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し、年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことであるとして、公家の高松実村を盟主としていた高松隊とともに偽官軍の烙印(明治?年2月10日付け「回章」)を押した。
一番隊は信濃国へ進むと2月6日には中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を拠点とし、碓氷峠を占拠して北陸雄藩と江戸の連絡を遮断することを計画したが、東山道軍は信濃各藩に赤報隊捕縛の命令を下し、2月17日には追分宿で小諸藩などに襲撃され惨敗。3月3日、下諏訪宿の外れで相楽や渋谷総司ら8名が処刑された。また高松隊を主導した伊豆出身の小沢一仙も甲府近郊の山崎刑場で処刑された。また年貢半減を沿道の農民に布告した赤報隊北信分遣隊の桜井常五郎ら3名も3月5日に追分宿で処刑された。しかし、赤報隊に加わっていた公家は処刑の対象から除外された。
なお、鈴木三樹三郎が率いる二番隊は新政府に従い、京都へ戻り、のちの徴兵七番隊に編入され、三番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士が処刑された。 また、赤報隊には甲斐国上黒駒村(山梨県笛吹市御坂町)の博徒・黒駒勝蔵も加入している。
黒駒勝蔵の加入