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赤坂 小梅
出生名向山 コウメ
別名梅若
生誕1906年4月20日
出身地 日本・福岡県
死没 (1992-01-17) 1992年1月17日(85歳没)
レーベルコロムビア
赤坂 小梅(あかさか こうめ、1906年4月20日[1] - 1992年1月17日[1])は、昭和時代に活躍した日本の芸者歌手。本名は向山 コウメ[1]。 福岡県田川郡川崎町で、九人兄姉の末娘に生まれた[1]。生後10日目に母を失い、長姉によって育てられる[1]。 幼少時から芸事が大好きで花街の歌声や三味線の音色を聞きながら育ったという。1920年、16歳のときに自分の意思で置屋の「稲本」で芸者修行に入り[1]、「梅若」の名で芸者となる[1]。「稲本」が小倉市に移転した後は「旭検」に所属した[1]。唄の技量に優れ「小倉に梅若あり」と言われるほどであった[1]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この時代、自分から芸者になることは大変珍しく、周囲の人間は猛反対したが、どうしても芸者になりたかったという。芸者時代には、明け方に座敷がはねた後で朝、船に乗って朝鮮に遊びに行ったなどという逸話も残っている。[要出典] 1929年、福岡を訪れた中山晋平と藤井清水が料亭で彼女の歌を聞き、藤井の推薦で日本ビクター蓄音器株式会社で録音を行う[1]。「小倉旭券梅若」の名で、藤井作曲の新民謡を16曲残した[1]。 1931年に上京し、後援者清水行之助の紹介で赤坂の料亭「若林」に移り「赤坂小梅」と改名[1]。お披露目をして鶯芸者として活躍した[1]。赤坂小梅名義で「別府待っちょる節」「豊後風景」などの新民謡を8曲吹き込んだ[1]。1933年3月にコロムビアに専属入社[1]。同年5月に古賀政男が作曲した「ほんとにそうなら」でデビューすると大ヒットした[1]。 1933年頃、小唄勝太郎と市丸は大変な人気で「市勝時代」などと言われたが、小梅も人気を呼び、先の二人と合わせて「鶯芸者の三羽烏」などと言われた。小梅は声量が大変豊かで音域も広く、特に太い低音が大変美しく豪快な歌いっぷりは繊細な小唄勝太郎とは対照的だった。[要出典] 1934年にも江口夜詩作曲の「そんなお方があったなら」がヒットし歌手としての不動の地位を築いた。「晴れて逢う夜は」「ゆるしてネ」等もヒット。また、この頃には「登別温泉小唄」「加賀小唄」など新民謡も多く吹き込んでおり、現地では盛んに唄い踊られていた。[要出典]1936年、長唄三味線の演奏家杵屋勝松
経歴
この時期になると、戦時歌謡や民謡を多く吹き込むようになった[1]。