この項目では、モスクワの広場について説明しています。クルスクの広場については「赤の広場 (クルスク)
(ロシア語版)」を、レストランについては「赤の広場 (レストラン)」をご覧ください。座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯55度45分15秒 東経37度37分12秒 / 北緯55.75417度 東経37.62000度 / 55.75417; 37.62000
モスクワのクレムリンと赤の広場
(ロシア)
聖ワシリイ大聖堂から見た赤の広場。
英名Kremlin and Red Square, Moscow
仏名Le Kremlin et la place Rouge, Moscou
登録区分文化遺産
登録基準(1),(2),(4),(6)
登録年1990年
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法・表示
赤の広場(あかのひろば、ロシア語:Красная площадьクラースナヤ・プローシシャチ)は、ロシアの首都モスクワの都心部にある広場である。長さは695m、平均道幅は130m、面積は7万3,000m2。
「赤」はソビエト連邦の社会主義に起因するものではなく、元々ロシア語では「美しい」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであった。広場は北西から南東に長く、南西側にはスターリンやブレジネフ、アンドロポフなどのソ連指導者の他、ガガーリン、片山潜などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟および重要人物が埋葬されているクレムリンの壁墓所、北東側にはグム百貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがある。
国家行事を含むモスクワの重要なイベントが行われる場所でもある。2006年からは冬期にグムがスケートリンクなどを開いている[1]。
歴史[ソースを編集]赤の広場の周辺クレムリンレーニン廟歴史博物館カザン聖堂V.門グム百貨店聖ワシリイ大聖堂
1493年、モスクワ大公国の統治者イヴァン3世が、自らの居城であるクレムリンの前の市街地を広場として整理させたのが起源とされる。以後、商業地域のキタイゴロドと区別され、モスクワ大公国やロシア帝国(ロマノフ朝)の重要な国家行事がここで行われるようになった。
当初は「赤の広場」という名称ではなかった。「トルグ広場」(トルグとは交易や商売を意味する)、広場の隅に立つ至聖三者聖堂(トロイツカヤ聖堂)の名から「至聖三者広場(トロイツカヤ広場)」、1571年のタタール人襲撃で起きた大火による「ポジャール広場(火事広場)」等の名称の変遷を経ている。16世紀には、石畳もまだ敷かれておらず、当時の風景を再現した絵画では地面に板が敷かれた状態で描かれている[2]。
「赤の広場(クラースナヤ広場)」と名付けられたのは、広場が整備された17世紀後半。なお、ロシア語名「クラスナヤ広場」の「クラスナヤ」は、ロシア語で「赤い」を意味するが、古代スラヴ語では「美しい」を意味する事から、「美しい広場」が原義に近い[2]。
ピョートル1世以降、ロシア帝国の首都はサンクトペテルブルクであったが、ロシア革命後に成立したソ連の首都がモスクワに定められ、モスクワが首都に返り咲くと、クレムリンには最高指導者が居住したため、赤の広場の重要性は更に増した。