赤い薬と青い薬
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赤と青の薬(薬)は、1999年の映画『マトリックス 』に使われた印象的なモチーフである。

赤い薬と青い薬(あかいくすりとあおいくすり、: Red pill and blue pill)とは、安定した生活を失ったり人生が根底から覆るとしても真実を知りたいのか、満ち足りた、しかしなにも知らない状態であり続けたいかの二択を指して言う言葉である。1999年の映画『マトリックス』に由来していて、前者が赤い薬、後者が青い薬を飲むことに比せられている。レッドピル、ブルーピルともいう。
背景

映画『マトリックス』の序盤で、主人公であるネオは、反体制派のリーダーであるモーフィアスから、赤い薬と青い薬のどちらを飲むかを迫られる。モーフィアスはこう説明する。「青い薬を飲めば… 物語はそこで終わりだ。自分のベッドの上で目覚めて、そこからは自分が信じたいものを信じればいい。赤い薬を飲めば… 不思議の国にとどまることができる。このウサギの穴がどこまで深いのか見せてやろう」。赤い薬は、この時のネオにとっては知りようもない不確かな未来を象徴している。一方で青い薬を飲めば、ネオには甘美な監獄生活が約束されていたはずである。マトリックスによるシミュレーテッド・リアリティの世界で、何かに渇望することも恐怖におびえることもない、一定の制約はありつつも、満ち足りて、しかし真実からは隔絶された世界に戻ることができただろう。結局ネオは赤い薬を飲み、機械が作り出した夢の中から抜け出して現実の世界に戻る。ただし「現実の世界」でネオは、夢の中よりもつらく困難な人生を生きなければならなくなる。
映画『マトリックス』(1999年)
神学、哲学、現代思想『水槽の脳』をイメージしたイラスト

ウォシャウスキー姉妹が監督をつとめた映画『マトリックス』は、グノーシス主義実存主義ニヒリズムなど、かつて登場した神学や哲学を参照している[1][2]。その世界観についても、プラトンの洞窟の比喩[3][4]や荘子の胡蝶の夢、デカルトの懐疑論[5]、カントの現象と「物自体」をめぐる思索、ノージックの「経験機械」[6]水槽の脳などの思考実験を取り入れている[7][8]。直接的には、白ウサギや「ウサギの穴に落ちる」というフレーズ(これはネオが「不思議の国」をみつける道筋の暗喩である)が登場するようにルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)の影響がある。

また、押井守の1995年のアニメ作品『Ghost in the Shell 』(士郎正宗の漫画作品『攻殻機動隊』のアニメ化)からも強い影響をうけている[9]

ラナ・ウォシャウスキーは2012年のインタビューで次のように語っている[10]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私たちがこの映画のストーリー全体を通して何を実現しようとしているのかといえば転移〔shift〕です。ネオに訪れたような転移。つまりネオにとっては、繭にくるまれたような全てがプログラミングされた世界から、自分の人生にとっての意味を構築するところに転移するわけです。自然と私たちはこんな風に考えました。「それなら、三部作を全て観ることができた人に、主人公たちが経験したのに同じような経験をさせることもできないのか」と。一作品目がある意味で古典的なアプローチをしている理由はそこにあります。そして二作品目は脱構築的だと言えます。一作品目において真実だと思われたもの全てに襲いかかり、観た人を激しく動揺させるからです。だから現代思想としての脱構築を体験した人が、つまり、デリダフーコーを読んだ人が動揺をさせられたような仕方で「自分を攻撃するのはやめてくれ!」と思うのです。そして三作品目は最も多義的〔ambiguous〕な作品といえるでしょう。観た人に、意味の構築に参加することを呼びかけるのですから...—Lana Wachowski, Movie City News, October 13, 2012
トランスジェンダーのアレゴリーとして

この映画のファンの中には、赤い薬を飲むことを、トランスジェンダーの人々やウォシャウスキー姉妹がカミングアウトをした過去のアレゴリーとしてみる人間もいる[11]。1990年代には、紅色をした薬プレマリンなどを服用することが、男性から女性へトランスしたい人間にとってのホルモン療法として一般的だったからである[12]。実際にリリー・ウォシャウスキーは、2000年8月にこの説が正しいことを認めている[13]
分析

オーストラリアの哲学者で作家のラッセル・ブラックフォードは、この赤い薬と青い薬のジレンマを扱ったエッセイを書いている。ブラックフォードは、現実の世界を望んで赤い薬を飲もうとする人間がいたとしても、もし十分な情報を得ていたなら(そしてそもそも飲む人間を何かの基準で選抜していないなら)、シミュレーションされたデジタルな世界よりも自らの身体を持った世界に生きるほうがよいとそもそも考えるか疑問だと論じている。1999年の『マトリックス』ではネオと登場人物の一人であるサイファーが共に青い薬ではなく赤い薬を飲むが、サイファーはモーフィアスがもっと情報をくれたならこんな選択はしなかったと後悔する。結局サイファーは「知らなければよかった」といって機械と取引をし、マトリックスの世界に戻って、それまでの全ての記憶を消しているとおりである。さらにブラックフォードは、『マトリックス』においては、映画という装置がお膳立てをしてくれるので、たとえ赤い薬を飲んだとしても「真の意味で」生きて死ぬことができるとも述べている。逆に言えば、ブラックフォードやSF作家のジェイムズ・パトリック・ケリーは、映画『マトリックス』が、機械や機械によってシミュレーションされた世界の側をむしろ不利な状況においていると考えている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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