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アイ・ハヌムから発掘されたアンティオコス1世の金貨。左側の写真から本物かどうか確認するためにつけられた傷が確認できる。
贋金(にせがね / がんきん、英: counterfeit money)は、偽造された貨幣のことである。偽金とも書く。
一般に、使用を目的として通貨を複製・偽造し、肉眼・機械その他の方法での判別を困難にしたものをいう。そういうものを作ることを通貨偽造や偽金(贋金)づくりと言う。また紙幣を偽造した場合、偽造された紙幣は偽札と呼ばれる。 贋金の歴史は通貨の発生とともに起きたと言われている。つまり通貨が出来るとすぐに贋金づくりが行われるようになり、ふたつは同じくらいに歴史が長いとされているのである。 贋金は通常はその国の民衆などが利潤を目的として行うものである。だが、自国貨幣が国際通貨としての価値を有する大国の周辺部の権力者が相手国の商圏に深く関与すべく国際通貨を偽造した例もある。 例えば、コンスタンティヌス1世が鋳造を始めた東ローマ帝国のビザント金貨は、ヨーロッパ全域で通用したのみならずフランク王国などのゲルマン諸国家では、国家による偽造すら行われた。続いて、イスラム帝国が台頭すると、そのディーナール金貨及びディルハム銀貨が今度は偽造の対象となり、あまつさえ、キリスト教徒である筈のヨーロッパの君主たちが、これらの金銀貨に刻まれたコーランなどのイスラム教の章句までもそのままの形で偽造する有様であった。そうでなければ通貨として信用されなかったのである。なお、この事実を地中海がイスラム世界に組み込まれてヨーロッパの商業が衰退したとみるか、それとも逆にイスラム世界とヨーロッパが地中海を介して1つの巨大な国際通商圏を形成したとみるかで歴史学者の間でも意見が分かれている。近世には、マリア・テレジア女大公統治下のハプスブルク家(オーストリア)が発行したマリア・テレジア・ターラー
歴史
日本では古くは私鋳銭と呼ばれ、大宝律令にはこれを処罰する規定が定められているが、和同開珎発行後に最高刑が死罪まで引き上げられた。私鋳銭とは、日本の朝廷が発行した貨幣以外の貨幣を指すものとされ、平安時代末期には宋銭などの渡来銭が私鋳銭にあたるかどうかについて、貴族や明法家などの間で議論された。実際に渡来銭を私鋳銭と同じとみなして宋銭禁止令が発令されたこともある。だが、皇朝十二銭以後、日本政府が貨幣を発行することはなくなり、一方で貨幣経済の発達により社会からは一定の貨幣供給量が求められることとなり、不足する貨幣を渡来銭で補う以外に選択肢はなかった。渡来銭を流通させてもなお貨幣供給量は不足し、私鋳銭の鋳造は日本全国でごく一般的に行われた。江戸幕府による三貨体制の確立にいたって、銭貨の私鋳はすべて贋金として禁止された。
著名な偽造師
カール・ウィルヘルム・ベッカー(1772?1830)
フランス革命以降フランスの支配下にあったシュパイヤーで、ワイン卸商の息子として生まれたが商才がなく、30代半ばにバイエルン王国の首都だったミュンヘンの造幣局に勤め、そこで金型彫刻の技術を学んだことから、古代のギリシャやローマの金貨や銀貨を偽造し、販売業者を通じてコレクターに売り捌くようになる。偽造した硬貨を鉄の削り屑を詰めた金属箱に入れて馬車の車軸に取り付けて走りまわせるなど、手の込んだ古銭らしさを出す工夫も行っていたが、利益は販売業者に殆ど奪われ、視力が衰えた1826年頃には金型製作を止めて、死後はベッカーの未亡人が残された金型で鉛製の贋金を製造するなどしたが、現在は金型の全てがベルリンの旧博物館に収蔵されている[1]。
ウィリアム・ブロックレイ(1822?1920)
米国出身。本姓はスペンサーで養父母の姓を名乗る。独学でイエール大学に進学して法学と電気化学を学び、コネチカット州ニューヘイブンの銀行にて、鉛のシートを使って印刷機から5ドル札のポジを作って1000枚を刷り、フィラデルフィアに移住して結婚をすると同時に株式仲買人を自称する。1860年に、英国生まれの彫刻師ウィリアム・スミスと知り合い、スミスがニューヨークで紙幣の彫版工をしていたことで、完成度の高い偽札を作るようになる。同時期に土地売買と農地経営に強い関心を持っていたジェームズ・B・ドイルをパートナーとし、資金洗浄用の口座を複数持つようになる。ブロックレイは15年間に亘って偽札づくり行い、成功を収める。1880年、翌年に償還期限を迎える1000ドル債権の原版をスミスに彫らせるが、同時期にブロックレイは妻と不仲になっており、離婚問題を相談した妻の弁護士の知人にシークレットサービスの捜査官がいたことで、ブロックレイは監視下に置かれる。その後パートナーのドイルが、スミスの自宅から偽造債権を持ち出すのを目撃され、シカゴで拘束される。ブロックレイも検挙されたが司法取引に応じて、偽造用の原版と特殊用紙、印刷済みの偽造債権を引き渡すことで訴追を免れた。1883年、偽造の鉄道債を所持していた罪で逮捕され、懲役5年を言い渡されるも3年で出所、偽造稼業を再開するも密告で再逮捕され、10年間の懲役に服する[2]。
サミュエル・アラン・テイラー(1838?1913)
スコットランド出身。幼少期に渡米してボストンを牛耳るギャングとなる。1863年に切手の偽造を手掛け、米国内で流通していた各州の御当地切手まで偽造し、自身の肖像画を描き入れることもあったという。1893年に一度収監されるが、偽造稼業は1905年まで続けていた[3]。
フランソワ・フルニエ(1846?1917)
スイス出身のフランス人。普仏戦争に出征後、復員したスイスのジュネーブで偽造切手の製造に手を染めるが、当時は合法で、偽造した切手が国際展覧会で金メダルを取ることもあったという。1904年には同業者のルイ=アンリ・メルシェの在庫を全て引き取って偽造を続けた。死後、遺品は彼の妻によってスイス郵趣連合に売却され、連合の手によって目録が作られた。偽造品の全てに偽造を証明する印章が押されて選別されたが、目録から外れた余剰の偽造品は全て焼却された[4]。
ジャン・ド・スペラティ(1884?1957)
イタリアのピストイア出身。「切手偽造の帝王」と呼ばれ、偽造した切手を専門家に鑑定させ、証明書を発行させてオークションにかける手法で利益を得ていた。