この項目では、金融業について説明しています。1964年のアメリカ映画については「質屋 (映画)」をご覧ください。
「一六銀行」はこの項目へ転送されています。岐阜県の地方銀行「十六銀行」とは異なります。
古くからある日本の質屋の店構え
質屋(しちや、英: pawn shop)とは、財産的価値のある物品を質として担保に取り、流質期限までに弁済を受けないときは当該質物をもってその弁済に充てる条件で金銭の貸し付け業務を行う事業者を指す[1]。質店や質舗、名古屋及び関西ではひちやとも呼ばれ、一六銀行(いちろくぎんこう)と言う俗称でも知られる。物品を質草にして金銭を借り入れることを「質入れ」といい、借入金を弁済して質草を取り戻すことを「質請け」という[2]。 質屋は通常、宝石類、楽器、家庭用オーディオ機器、コンピュータ、ゲーム機器、テレビ、カメラ、電動工具、礼服、眼鏡、スマートフォン、タブレット端末その他の比較的貴重な物品を質草として受け入れる。法的に銃所持が認められている国々では、銃器も質草になりうる。 流質期限までに借入額+合意した利息額を弁済することで、質草が手元に戻ってくる仕組みである。その期日や利率は、法律および質屋の方針によって決定される。流質期限までに弁済が行われなかった場合、担保の質草は質屋によって他の顧客に売却されることとなり、「質流れ」と呼ばれる。 他の金融業とは異なり、質屋は顧客の信用情報に破綻した貸付金の報告を行わない。これは、質屋は顧客から預かった担保の品を物理的に所有しており、その物品を完全売却することで貸付金を取り戻すことができるので店側が損害を受けることはないからである。ただし、日本の質屋は法で定められた備え付けの帳簿に、流質物処分をはじめ質の契約取引をその都度記載しなければならない[3]。 また、顧客から完全に買取った物品も販売している。 一部の質屋は、顧客によって持ち込まれた物品と店内にある品との交換にも前向きである。 西洋では、古代ギリシアとローマ帝国に質屋が存在していた。 同帝国が自らの文化を広めるにつれて、一緒に質屋ビジネスも普及していった。 同じく東洋では、皇帝や他の権力者によって厳しく規制された時代を経て、1500年前の中国に今日と変わらない質屋のビジネスモデルが仏教の僧院に存在していた。現代アメリカの質屋の店構え 初期のローマカトリック教会が貸付金に利子を請求することを禁じていたにもかかわらず、フランシスコ会は貧しい人々への援助としてこの慣習を始めることを許されたという証拠がいくつかある[4]。質屋はウィリアム征服王と共にイングランドに到着した。1338年に、エドワード3世はフランスとの戦争資金を捻出するために自身の宝石類を質入れした。1415年にはヘンリー5世がほぼ同様のことを行っている。ロンバート金貸しは人気のある社会階級ではなく、ヘンリー7世は彼らをずいぶん虐げた。1603年に反ブローカー法(Act against Brokers)が可決され、1872年まで法令全書に残っていた。それはロンドンにいる多くの偽装質屋(の取り締まり)を目的としていた。こうしたブローカー達は間違いなく盗品売買をしている輩だと見なされていた。 十字軍は軍隊を調達し、武装して聖地に輸送する資金づくりのため、主にフランスで、自分達の土地の所有権を修道院と教区に質入れしていた。完全な返済の代わりとして、教会は一定期間の間(その土地で採れた)収穫の一定量を受け取り、それはある種の公平性をもって償還に充てることが可能だった。 質屋も慈善団体になることがある。 1450年、フランシスコ会の修道士バーナバ・マナッセイがイタリアのペルージャでモンテ・ディ・ピエタ運動を始めた。それは質草で担保された無利子ローンの形で財政援助を提供した。利子の代わりに、モンテ・ディ・ピエタは借り手に教会への寄付をするよう促した。それはイタリア全土に広がり、後にヨーロッパの他地域にも及んだ。スペインで最初のモンテ・デ・ピエダド組織はマドリードで創設され、そこからその考えはペドロ・ロメロ・デ・テレロス、サンタ・マリア・デ・レグラ伯爵[5]、カラトラバ騎士団[6] によってヌエバ・エスパーニャに移された。
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