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この項目では、中国韻文における文体の一つについて説明しています。『詩経』の六義の一つについては「詩経」を、西洋の賦(頌歌、オード)については「頌歌」を、中世日本の訴訟手続の一つである賦(くばり)については「賦 (訴訟)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。黄庭堅「苦笋賦」(1099年)

賦(ふ)とは、古代中国韻文における文体の一つ。などと並び、帝国を代表する文芸である。戦国時代に端を発し、形を変えながら遅くはに至るまで存続した。

漢詩が歌謡から生まれたと考えられるのに対し、賦はもとより朗誦[1]されたものと考えられている。文体の性格としては漢詩散文の中間に位置する。賦は元来国ぼめの性質を持つとされ、都城の賛美に使われたほか、あらゆる場所・物・感情を網羅的に表現する手段として用いられた。漢代の賦は抒情的要素が少なく、事物を網羅的に描写する。時代が下ると抒情的な性格も強まっていき、また駢儷文近体詩などの影響を受けるようになる。

賦についての研究・評論は清代において最盛期を迎える。しかし、過度に修辞的で現実的な感情に欠け、道義的主張が曖昧であるとして、20世紀の間は長らく、賦は中国の文人の批判するところとなった。このような歴史的経緯もあって、中国の賦文学研究は1949年から文化大革命の終わる1976年までほぼ消滅しかけていた。それ以降は、賦の研究は徐々に以前の水準を取り戻しつつある[2]

日本では『古今和歌集』においてかぞえうたと解釈され、和歌の理論の中に取り入れられているが、漢文体の賦やそれに類する日本語の文学作品の制作が試みられた時期もあった。また西洋においては賦に類似するものとして頌歌が挙げられる。
字義

中国古典において「賦」という言葉が初めて見えるのは代であり、詩の朗誦のように提示することを意味していた[3]。本来「賦」は「敷」に通じ、広く敷きのべる・頒布する意味がある[4][5]。文学上の字義としては、広く行き渡らせる意味から転じて、声を大にして人々に聞かせる意、すなわち朗詠や詩作を意味することとなった[5]。このような用法は早くは『春秋左氏伝』に見えている。韻文の形式としての賦は、事物を並べる意と口誦する意を兼ねて成立したものと言える[6]。またこれと別に、『詩経』の六義の1つとして直接的に思ったことを叙述することを表す用法もある。

「賦」字の解釈をめぐっては、古来2つの文脈があった。1つには『周礼』の鄭玄注に「賦之言鋪、直鋪陳今之政教善悪(賦の言は鋪なり、直だ今の政教の善悪を鋪陳す)」と言い、賦を鋪(=敷く・並べる)、つまり言葉を並べるものと定義する[7]。また一方班固は『漢書』芸文志において、「不歌而誦謂之賦(歌わずして誦す、之れを賦と謂ふ)」と定義する[3]
歴史
起源

賦はしばしば『楚辞』から派生したとされる。『楚辞』はシャーマニズムの祭祀音楽に由来することが知られているが、これが時代を経てメロディを失うとともに、諸子百家らの修辞的な弁論術の影響を受けて、口誦文学としての賦の発生につながったと考えられる[8]。実際に、『戦国策』にみる縦横家の弁舌や荀子の『賦篇』、そして南方に興った『楚辞』には、問答体の文章構成、羅列的・重畳的表現で賛美を尽くす技法など、漢代の賦につながる要素が共通して数多く含まれている[9]。『楚辞』中の「卜居」「漁父」の2篇は漢代の賦の先駆と言ってよい[10]

代表作「離騒」をはじめとする屈原の作品は、その弟子とされる宋玉らの作品とともに「騒体賦(騒賦)」と呼ばれ、後世の賦の形式・内容の源流をなした[11]。「離騒」に特徴的な形式や抒情性を受け継いだものを前漢以降特にと呼び、辞と賦とを併せて辞賦と称することもあるが、両者の区別は必ずしも判然とせず、賦はしばしば辞を含めた包括的な文体名としても用いられる。一方で朱熹が『楚辞後語』で「長門賦」に言及したように、賦と題する作品でも辞に含められることもある[11]

年代の明らかな現存最古の賦は、紀元前170年頃に作られた賈誼の「?鳥賦」である[12]。賈誼の現存の作中に、彼が長沙への流謫に際して「離騒」になぞらえて作った賦に言及しているが、この作品は散逸している。
漢代
前漢

賦の最盛期は漢初である。紀元前2世紀の賦の黄金時代には、優れた賦作家の多くが楚から現れた[13]。前170年ごろの賈誼「?鳥賦」は長沙への追放の3年後に書かれたものであり、「離騒」ほか屈原の作の形式に倣っている。「?鳥賦」は知られている最古の作品であると同時に、作者の人生における立ち位置について思索を広く述べている点で特異である[12]前漢の梁王劉武の屋敷で賦を競う人々。(宋・「梁孝王梁園文学会」)

景帝は辞賦を重んじなかったため、枚乗や鄒陽ら当時の賦家は呉の劉?や梁の孝王の下に集い、多くの賦を世に遺した[14]前141年に王位を継いだ武帝の54年に及ぶ治世は、大賦(古賦)の黄金時代と言われる[13]。武帝は長安の宮廷に名だたる賦家を呼び寄せ、多くの作家が賦を宮廷中で披露した[13]。武帝の治世における最初期の大賦は枚乗による「七発」である[13]。この「七発」以来、賦は道徳的・啓蒙的内容を述べながら虚飾的な耽美性をもつという相矛盾する性質を備えるようになる[15]

大賦の黄金時代を築いた作家の中で、司馬相如は白眉と見なされる[12]。成都の生まれで、武帝が偶然彼の作「子虚賦」を読んだ際に彼を宮廷に招いたと言われる(この逸話はおそらく後付けである[13])。前136年に都に上ると、司馬相如は「子虚賦」を傑作「上林賦」に発展させた。この賦は一般にもっとも有名な賦とされる[16][12]。原題は「天子遊獵賦」だったとされ、長安の東に作られた皇帝の狩場を称えるものであるが[12]、奇語・難語や僻字を多用し[17]西晋郭璞による注釈がなければ今や解読しえないものであった。次の一節は「子虚賦」の前半、鉱物・貴金属・動植物の名前を押韻しながら列挙する部分であるが、事物の陳述と奇語の多用という大賦の特徴をよく示している[18]

司馬相如「子虚賦」抄(太字は韻字を示す)
雲夢者、方九百里、其中山有焉。 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}雲夢(うんぼう)は方九百里、其(そ)の中に山有り。
其山則、盤紆?鬱、隆崇イ?、岑崟參差、日月蔽虧。 其の山は則(すなわ)ち盤紆?鬱(ばんうふつうつ)、隆崇イ?(りゅうすうりつしゅつ)、岑崟參差(しんぎんしんし)として、日月(じつげつ)は蔽虧(へいき)す。
交錯糾紛、上干青雲、罷池陂?、下屬江河。 交錯糾紛(こうさくきゅうふん)として上に青雲を干し、罷池(ひち)は陂?(はた)として下に江河を屬す。
其土則、丹青赭堊、雌黄白坿、錫碧金銀。


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