賈南風
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賈皇后
西晋の皇后
在位太熙元年4月20日 - 永康元年4月9日
290年5月16日 - 300年5月13日

全名賈南風
出生甘露2年(257年

死去永康元年4月9日
300年5月13日
洛陽
配偶者恵帝
子女河東公主
始平公主
弘農公主
哀献皇女
父親賈充
母親郭槐
兄弟賈黎民
姉妹賈?(司馬攸の妃)、賈濬、賈午
賈謐
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賈 南風[1](か なんぷう)は、中国西晋の第2代恵帝皇后。幼名を?(じ、「時」の古字)という。平陽郡襄陵県(現在の山西省臨汾市襄汾県)の人。父は賈充。母は郭槐。同母妹は賈午。朝廷内で権力を握っていた楊駿・汝南王司馬亮・楚王司馬?を次々と死に追い込み、自ら権力を握ったが、その統治下では優秀な官僚が登用されたため、国政は比較的安定していたともされる。しかし後に皇太子司馬?との不和から彼を殺害した事で、大義名分を得た皇族の一人である趙王司馬倫の挙兵を受け自らも失脚し、間もなく自死に追い込まれた。
生涯
皇后となるまで

甘露2年(257年)、の高官である賈充の三女として生まれた。泰始7年(271年)7月、涼州禿髪樹機能の乱が起こると、父の賈充は長安への慰撫を命じられたが、洛陽から離れる事を嫌った賈充はこの人事を棚上げにするため、娘の賈南風を皇太子司馬衷(後の恵帝)の妃とするよう武帝司馬炎へ勧めた。だが、司馬炎は司馬衷の妃として衛?の娘を迎えようと考えていたので、これに応じなかった。

11月、郭槐(賈南風の母)は皇后の楊艶(楊元后)の侍従へ賄賂を贈り、自らの娘が太子妃になるように裏工作を行った。これにより、楊艶は賈充が晋王朝成立の功臣であることをもって、賈南風を太子妃とするよう司馬炎へ勧めたが、司馬炎は「衛公(衛?)の娘は美点が5つあり、賈公(賈充)の娘は欠点が5つある。衛氏は賢才で家には子が多く、容貌美しく背が高く、肌は白い。その一方、賈氏は嫉妬深い上に家には子が少なく、容貌醜く背が低く、色が黒い」と述べ、これを認めなかった。だが、その後も楊艶は馮?荀勗(いずれも賈充の側近)らと共に、盛んに賈南風の美貌と才徳を称えたので、司馬炎は遂にこれを認めた。こうして、賈充もまた長安から呼び戻された。

泰始8年(272年)2月、賈南風は正式に太子妃に立てられた。彼女は残虐で嫉妬心が強く権謀を好み、さらには身重の側室を嫉妬心から胎児ごと手に掛けた事すらあった。激怒した司馬炎は賈南風を金?城に幽閉し、司馬衷との離婚を命じようとした。しかし最初の皇后の楊艶の従妹である楊?(楊皇后)が再び賈充の功績を理由に取りなし、外戚の楊?や馮?・荀勗らも「賈妃(賈南風)はまだ若く、嫉妬心というものは女性の正常な心理でもあります。成長したらきっと改善されることでしょう」と取りなしたので、司馬炎はようやく思いとどまった。この後、楊?はしばしば賈南風の振る舞いを諫めたが、賈南風は楊?が自分を助けてくれた事を知らなかったので、逆に司馬炎の前で訓戒を垂れる楊?を逆恨みするようになった。

司馬衷は暗愚であり、朝臣も民衆も後継に相応しくないと思っていた。そのため和?や衛?らが遠回しに皇太子廃立を勧めると、司馬炎は東宮の官員を集めて宴を開き、尚書でも解決に苦慮する難題が書かれた文書を見せて「太子に決裁させる」と宣言し、これをもって太子にふさわしいかどうかを見極めようとした。これを聞いた賈南風は部下の張泓に下書きを書かせ、それを司馬衷に手直させたものを司馬炎に提出した。この回答に満足した司馬炎は大いに喜び、皇太子廃立は取りやめとなった。後に、賈充は衛?が皇太子廃立を勧めたと知ると、これを大変恨み、賈南風へ「衛?の老いぼれが我が家をつぶそうとしおった。いつか奴の一家を滅ぼしてやる」と告げた。賈南風もまた衛?に心底恨みを抱いた。
相次ぐ粛清

太熙元年(290年)4月、司馬炎が崩御すると、司馬衷が新たな皇帝に即位し(晋の恵帝)、賈南風は皇后に立てられた。即位当初は外戚の楊駿(皇太后楊?の父で)が実権を握っていたが、賈皇后は楊駿一派を排除して政治の実権を握るべく、楊駿に軽んじられていた殿中中郎孟観・李肇・宦官の董猛らと共謀して陰謀を練った。はじめに皇室の重鎮である汝南王司馬亮を誘い入れ、次に楚王司馬?を誘い入れた。永平元年(291年)3月、賈皇后らはクーデターを起こし、楊駿やその一党を誅殺した。楊氏は三族皆殺しとなり、皇太后の楊?は庶人に落とされて金?城に監禁された。

楊氏一派が粛清されると、汝南王司馬亮と太保衛?が朝政を司ることになった。賈南風は日増しに道理に反する行いが増えたので、東安王司馬?は皇后廃位を考えたが、賈南風はそれを察して司馬?を罷免し、帯方郡に移した。賈南風は過去の一件より衛?を憎んでおり、また司馬亮と衛?が政権を掌握していたので賈氏の権限が抑え込まれている事に不満を抱いていた。司馬?もまた司馬亮・衛?と対立していたので、賈南風は司馬?との結び付きを強めた。同年(元康元年)6月、司馬?の部下が司馬亮と衛?を誣告すると、賈南風は恵帝に要請して、司馬?に対し司馬亮・衛?を免官させるよう命じる詔勅を作らせた。司馬?はこれに従って自ら統括している北軍を動かし、配下の公孫宏・李肇・清河王司馬遐らに衛?の逮捕を命じた。司馬亮は李肇に捕縛されて殺害され、衛?もまた司馬遐に捕らえられて誅殺された。

夜が明けると、太子少傅張華は董猛を派遣して賈南風へ「楚王(司馬?)が二公(司馬亮・衛?)を殺した事で、天下の威権は楚王に集まるでしょう。そうなれば人主(恵帝)も安泰ではいられません。独断で重臣を殺した罪で、司馬?を誅殺すべきです」と勧めると、賈南風もまた司馬?を危険視していたので張華に同意した。この時、朝廷内外は混乱し、誰も状況が把握できていなかった。張華は恵帝へ、司馬?が詔書を偽造して司馬亮と衛?を独断で殺害したと報告した。これを受け、恵帝は諸将へ司馬?逮捕を命じ、司馬?は捕らえられ廷尉に送られた。朝廷は詔を下して死刑を命じると、司馬?は司馬亮らの粛清を命じた詔を見せて冤罪を涙ながらに訴えたが、構わず処刑された。

さらに元康2年(292年)2月、庶人に落とされ幽閉されていた楊?に一切の物資を与えないように命じ、水も食事も絶たれた楊?は8日後に餓死した。妖巫を信じていた賈南風は、楊?があの世で司馬炎に冤罪を訴えないよう、顔に覆いをかぶせ、お札や薬物を加えた上で葬らせたという。
朝政を専断

司馬亮・衛?・司馬?らの粛清により、賈南風は賈謐(妹の賈午の子)・郭彰ら一族と共に、朝廷の実権を握り天下を欲しいがままとした。


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