株式会社資生堂
Shiseido Company, Limited
本社が入居する汐留タワー
種類株式会社
機関設計監査役会設置会社[1]
市場情報東証プライム 4911
株式会社資生堂(しせいどう、英語: Shiseido Company, Limited)は、化粧品の製造・販売を主な事業とする日本の企業である。化粧品の国内シェア第1位であり、世界シェアでは第5位となっている。日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ[3][4]。
世界の約120カ国・地域で事業展開しており、海外売上比率は6割を超える。 1872年(明治5年)9月17日、福原有信が東京・銀座に「資生堂薬局」創業。商号の由来は、中国の古典『易経』の一節「至哉坤元 萬物資生(至れるかな、坤元。万物資(と)りて生ず。)」から。「資生」は中国清代の文献に良く見られ、近代の中国や日本で「economy」の訳語として用いられた時期もあった。 「新しく深みのある価値を発見し、美しい生活文化を創造する」という企業理念のもと、化粧品事業を中心に、トイレタリー事業やヘルスケア事業(美容・健康食品や一般用医薬品)、フロンティアサイエンス事業(医療用医薬品や美容医療、クロマトグラフィー、原材料事業)などを展開している。過去には生理用品や洗濯用洗剤、歯磨剤も発売されていた(資生堂本体が手がけたケースと子会社が手がけたケースとがある)が、売上不振によりいずれも撤退している。 シンボルマークは「花椿」と呼ばれ、資生堂に関連する活動にも「椿」の名称が多用される。このシンボルは1987年(昭和62年)に広告での使用を中止し、1989年(昭和64年/平成元年)以降は製品からも外すなど対外的な使用を取りやめ、使用範囲は株券などに限定されていた。2004年(平成16年)から方針転換し、復活している。資生堂のCMは基本的に「SHISEIDO」の欧文ロゴが冒頭の数秒間、画面下部に表示される。これは1970年(昭和45年)前期から始まったものである。ロゴのSの文字は積分記号のように上下を伸ばしている。 同社のコーポレートスローガンは「一瞬も 一生も 美しく」である。またかつてのスローガンには「ヒトを彩るサイエンス」などもあった。また、テレビ・ラジオ番組での提供クレジットでは長らく「東京・銀座 資生堂」というフレーズが用いられてきた。 第一勧銀グループの一員である。
概要
沿革関東大震災後に建てられた仮設店舗資生堂銀座ビル東京銀座資生堂ビル。資生堂パーラーなどがはいっている。資生堂香港店
1872年(明治5年)9月17日 - 日本初の洋風調剤薬局として福原有信が東京・銀座(出雲町)に「資生堂薬局」創業。
1880年(明治13年) - 育毛剤の販売開始。
1888年(明治21年) - 日本初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」発売。
1897年(明治30年) - 化粧品業界へ進出、高等化粧水「オイデルミン」発売。
1902年(明治35年) - 東京・銀座の資生堂薬局内に、日本ではじめてソーダ水とアイスクリームの製造と販売を行う「ソーダ・ファウンテン」を開設、後に資生堂パーラーに発展。
1915年(大正4年) - 商標「花椿」制定。同年、養毛剤「フローリン」を発売[5]。
1916年(大正5年) - 東京・銀座(竹川町)に化粧品部を開店。
1917年(大正6年) - 「七色粉白粉」発売。日本人により制作された最初の本格的香水「花椿」発売。
1918年(大正7年) - 「資生堂コールドクリーム」発売。
1919年(大正8年) - 大阪・心斎橋に支店開設。現存する日本で最古の画廊である資生堂ギャラリー開設。
1921年(大正10年) - 「資生堂五大主義」制定。
1922年(大正11年) - 三科「美容科」「美髪科」「子供服科」開設、美髪科主任として米国よりヘレン・グロスマンを招く。
1923年(大正12年) - 関東大震災で煉瓦造り3階建ての薬品部と化粧品部の建物(現:資生堂ザ・ギンザの場所)が倒壊。チェインストア制度採用。
1924年(大正13年) - 愛用者向け文化情報誌「資生堂月報」創刊。
1926年(大正15年)1月31日 - 銀座を襲った黒色青年連盟の暴徒によりショーウィンドウを破壊される[6]。
1927年(昭和2年) - 株式会社資生堂設立。欧文ロゴタイプ確立。
1928年(昭和3年) - 5月18日、化粧品部の建物が落成。7月3日、「資生堂パーラー」が営業開始。
1931年(昭和6年) - 東南アジア向けに「ローズ化粧品」輸出。初の本格的海外展開。
1932年(昭和7年) - 「ドリュウ(ドルックス)化粧品」発売。
1934年(昭和9年) - 銀座の化粧品部に資生堂美容室開店。島屋、神戸大丸にて当時銀座にさえなかった百貨店を舞台に華麗なキャンペーン実施。
1937年(昭和12年) - 企業文化誌『花椿』創刊。
1939年(昭和14年) - 資生堂化学研究所設立。
1940年(昭和15年) - 中国向けに香水を量産し日本を代表する高級輸出品となる。
1943年(昭和18年)2月15日 - 銀座の美容室が決戦下にふさわしくないとして廃止。電髪器など金属類は献納された[7]。
1949年(昭和24年) - 東京証券取引所市場第一部に上場。
1953年(昭和28年) - 資生堂美容研究所開設。
1956年(昭和31年) - 東京・渋谷の東急文化会館に総合美容サロン1号店オープン。
1959年(昭和34年) - 「資生堂美容技術専門学校(現 学校法人 資生堂学園)」創設、数多くのヘアメイクアーティスト、メイクアップアーティストを輩出。
1972年(昭和47年)9月17日 - 創業100年(1世紀)。その記念ブランドとして男性用化粧品ロードス発売。
1980年(昭和55年) - フランスの「ピエール ファーブル社」との合弁会社「シセイドウ フランス」をパリに設立。
1983年(昭和58年) - 中国(北京市)でシャンプー、リンスの生産開始(輸入販売の開始は1981年)。
1985年(昭和60年) - ビューティサイエンス研究所発足。
1986年(昭和61年) - スキンケアブランド「アベンヌ」販売のため、ピエール ファーブル社との合弁、「(株)ピエール ファーブルジャポン」を東京・赤坂に設立。エステティックサロン専用のスキンケアブランド「カリタ」を買収。
1987年(昭和62年) - 「資生堂薬品(株)」設立。
1988年(昭和63年) - 一般用医薬品事業に参入。ヘアサロン専用ブランド米国パーマ剤トップメーカー「ゾートス社」を買収。
1989年(平成元年) - 10月1日、ハーバード大学と共同でマサチューセッツ総合病院内に『ハーバード大学皮膚科学研究所』を設立(研究陣にはハーバード医科大学を中心に生物学、免疫学、細胞学、分子生物学など多岐にわたる先端科学者を世界から招聘)[8]。
1991年(平成3年) - 資生堂として初めてのエステティックブランド「Qi」を開発し、エステティック事業へ参入。
1993年(平成5年) - 医療用医薬品事業に参入(オペリード(化粧品原料でもあるヒアルロン酸を活用した眼科手術補助剤、販売:武田薬品工業、発売:千寿製薬)[9][10]、カサール(化粧品の製剤化技術を活用した抗ウイルス剤、販売:マルホ)[11])。
1997年(平成9年) - 化粧水「オイデルミン」の発売100周年、新しいデザインの製品を発売。「ヘレンカーチスジャパン」のサロン事業部門を買収、「(株)ジェニック」に社名変更。