賀陽親王
[Wikipedia|▼Menu]

賀陽親王
賀陽親王(『前賢故実』より)
時代平安時代初期
生誕延暦13年(794年
薨去貞観13年10月8日871年11月23日
別名高陽親王
官位二品大宰帥
父母父:桓武天皇、母:多治比真宗
兄弟平城天皇朝原内親王長岡岡成伊予親王良岑安世嵯峨天皇淳和天皇葛原親王大宅内親王高津内親王万多親王高志内親王明日香親王仲野親王佐味親王坂本親王、賀陽親王、布勢内親王葛井親王安勅内親王賀楽内親王菅原内親王甘南美内親王伊都内親王
道野王忠貞王利基王忠範王
テンプレートを表示

賀陽親王(かやしんのう)は、桓武天皇の第十皇子。官位二品大宰帥。高陽親王とも記される。
経歴

嵯峨朝末の弘仁12年(821年四品に叙せられる。淳和朝では弘仁14年(823年治部卿、天長3年(826年中務卿を歴任。天長10年(833年仁明天皇即位後まもなく三品に叙せられ、承和7年(840年大宰帥、承和15年(848年)治部卿に任ぜられる。

嘉祥3年(850年文徳天皇の即位後まもなく弾正尹に任ぜられ、斉衡2年(855年)二品に至る。また、同年に大破した東大寺大仏の修造に当たり、貞観3年(861年)3月には東大寺大仏修理落成供養会を監修している[1]

清和朝の貞観2年(860年)治部卿に任ぜられる。貞観5年(863年)体力の衰えを理由に致仕を願い出るが許されなかった。貞観13年(871年)正月に大宰帥を兼ねるが、2月に抗表を行い長く務めていた治部卿を辞す。同年10月8日薨去享年78。最終官位は二品行大宰帥。
逸話

今昔物語集』24巻2話に「高陽親王(かやしんのう)」という名で登場する。高陽親王が建てた京極寺の付近の田は、日照りになると水枯れとなり、農民を悩ませていたため、両手に器をもち、水で器が一杯になると顔に水がかかる仕掛けを細工した身長4尺(約120cm)の子どものからくり人形を親王が田に設置したところ、大勢の人が面白がって水を掛けたため、その田は日照りの最中でも水不足になることはなかったとある。
官歴

注記のないものは『六国史』による。

時期不詳:正六位上

弘仁12年(821年) 正月7日:四品

弘仁14年(823年) 11月13日:治部卿

天長3年(826年) 7月15日:中務卿。9月:常陸太守[2]

天長10年(833年) 3月6日:三品

承和7年(840年) 正月30日:大宰帥

承和15年(848年) 2月14日:治部卿

嘉祥3年(850年) 5月17日:弾正尹

斉衡2年(855年) 正月7日:二品

貞観2年(860年) 正月16日:兼常陸太守。2月14日:治部卿、常陸太守如故

貞観9年(867年) 正月12日:兼上野太守

貞観13年(871年) 正月29日:兼大宰帥。2月9日:辞治部卿。10月8日:薨去(二品行大宰帥)

系譜

父:
桓武天皇

母:多治比真宗

同母兄:葛原親王 - 子孫は桓武平氏

同母兄:佐味親王


生母不詳の子女

長男:道野王(? - 855年)[3]

男子:忠貞王(820年 - 884年)[4]

六男:利基王(822年 - 866年)[5]

男子:忠範王(? - 880年)[6]


脚注^ 『日本三代実録』貞観2年4月8日条
^ 『帝王編年記』
^ 『日本文徳天皇実録』斉衡2年3月13日条
^ 『日本三代実録』元慶8年8月27日条
^ 『日本三代実録』貞観8年正月24日条
^ 『日本三代実録』元慶4年2月6日条

参考文献

森田悌『日本後紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、2007年

森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年

武田祐吉佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年

外部リンク

高陽親王造人形立田中語
今昔物語集. 巻第24


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:10 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef