賀陽 恒憲
(賀陽宮恒憲王)
賀陽宮
続柄
賀陽宮邦憲王第1王子
崇光天皇男系17世孫
後陽成天皇女系9世孫
霊元天皇女系8世孫
全名恒憲(つねのり)
身位王 →(皇籍離脱)
敬称殿下 →(皇籍離脱)
出生1900年(明治33年)1月27日
大日本帝国・京都府
死去 (1978-01-03) 1978年1月3日(77歳没)
日本・千葉県
埋葬豊島岡墓地
配偶者九条敏子(九条道実の5女)
子女邦寿王
美智子女王
治憲王
章憲王
文憲王
宗憲王
健憲王
父親賀陽宮邦憲王(久邇宮朝彦親王の第2王子)
母親邦憲王妃好子(後陽成天皇の8世孫)
役職陸軍中将
軍事参議官
由良要塞司令官
第43師団長
近衛混成旅団長
騎兵第2旅団長
騎兵第16連隊長
騎兵第10連隊長
日清生命社友会会長
テンプレートを表示
士官候補生時代の恒憲王ウィキメディア・コモンズには、賀陽宮恒憲王に関連するカテゴリがあります。
賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、1900年〈明治33年〉1月27日 - 1978年〈昭和53年〉1月3日)、のちに賀陽 恒憲(かや つねのり)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。神宮祭主賀陽宮邦憲王の第1王子。賀陽宮第2代当主。官位は陸軍大学校長陸軍中将大勲位功三級に昇る。妃は九条道実公爵の五女敏子。戦後皇籍離脱した。香淳皇后(昭和天皇后)の従兄にあたる。 王は軍人として陸軍中将に昇り東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めた。また、終戦が決まると皇族の臣籍降下も主張した。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下し、その3日後には区役所にて住民手続きし賀陽 恒憲(かや つねのり)となる。
概要