賀茂保憲
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 凡例賀茂 保憲
時代平安時代中期
生誕延喜17年(917年
死没貞元2年2月22日977年3月14日
官位従四位上主計頭
主君朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族賀茂氏
父母父:賀茂忠行
兄弟保憲、保遠、慶滋保胤、慶滋保章
光栄、光国、光輔、女子
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賀茂 保憲(かも の やすのり)は、平安時代中期の貴族陰陽家丹波権介賀茂忠行の長男。安倍晴明の師とも、また彼の兄弟子とも言われる。官位従四位上主計頭
経歴

父・忠行と同じく陰陽道の達人で、当時の陰陽道の模範とされるほどの評価を得ていた[1]。また暦道も究めて、著書『暦林』10巻、及び『保憲抄』(いずれも散逸)を記している。

天慶4年(941年7月17日に暦生ながら造暦宣旨を蒙って以降、暦博士天文博士陰陽頭穀倉院別当・主計頭を歴任し、天延2年(974年)には従四位上に叙せられる。当時の陰陽家のなかに於いても極めて昇進が早く、天暦6年(952年)既に従五位下に叙せられ殿上人となっていた保憲は、当時正六位上であった父・忠行よりも位階が上になっていることに申し訳なさを感じ、大江朝綱を通じて父の昇進を願い出たこともあった。

陰陽道のうち、暦道を子・光栄に、天文道安倍晴明に継がせて、陰陽道宗家を二分したことが知られている。『続古事談』によれば、安倍晴明と賀茂光栄との間で、どちらが師匠の賀茂保憲に気重されていたかの論争があったという。

保憲の残した『暦林』を元に後世書かれた『暦林問答集』は、現代においてもいわゆる旧暦を読む際の重要な資料となっており、後の暦法の発展は彼がいなければなかったといえる。
逸話

今昔物語集』によれば、幼少時に父が祓いを依頼された際に一緒に付いて行ったところ、祓いの最中に供物に無数のが集っているのが見えたため、父・忠行に告げたという。忠行は、我が子が修行を積まなくても見鬼(鬼を見る能力)の才を身に着けていることに驚き、以後陰陽道を指南したという。
官歴

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出典検索?: "賀茂保憲" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年6月)


天慶4年(941年) 7月17日:暦生として造暦宣旨を受ける。日付不詳:従五位下行暦博士

天慶6年(943年) 4月29日:兼陰陽博士

天徳元年(957年) 8月17日:陰陽頭

天徳4年(960年) 4月22日:主計権助天文博士

安和2年(969年) 日付不詳:従五位上、穀倉院別当。12月:主計頭[2]

天禄元年(970年) 日付不詳:正五位下

天延2年(974年) 11月:従四位上(造暦功労)

系譜

父:
賀茂忠行[3](?-960?)

母:不詳

生母不明の子女

長男:賀茂光栄[3](939-1015)- 従四位下、権暦博士、播磨権介右京権大夫

次男:賀茂光国[4] - 天文得業生、権天文博士、天文博士、内蔵允

三男:賀茂光輔[4] - 紀伝生として撰国史所出仕[5]。従五位下、大外記筑後守

長女:賀茂保憲女 - 歌人。私家集に『賀茂保憲女集』。子に尼僧・縁妙(候名、監の君)[6]


脚注

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^ 「當朝以保憲、為陰陽之規模」『左経記
^ 『地下家伝』
^ a b 『尊卑分脈』
^ a b 「賀茂系図」『続群書類従』巻第167


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