貴族院_(イギリス)
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イギリスの議会
貴族院
(きぞくいん)
House of Lords

種類
種類イギリス議会上院
沿革
設立14世紀前半
役職
議長アルクリィースのマクフォール男爵
ジョン・マクフォール(無所属(英語版))、
2021年5月1日より現職
上級副議長キンブルのガーディナー男爵
ジョン・ガーディナー(英語版)(無所属(英語版))、
2021年5月11日より現職
院内総務ツルー男爵ニコラス・ツルー(英語版)(保守党)、
2022年9月6日より現職
影の院内総務バジルドンのスミス女男爵
アンジェラ・スミス(英語版)(労働党)、
2015年5月27日より現職
構成
定数778[1][注釈 1]

院内勢力.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  議長 (1)

聖職貴族  主教 (25)

世俗貴族

国王陛下の政府  保守党 (265)

国王陛下の野党  労働党 (170)

その他の野党  自由民主党 (83)  民主統一党 (5)  緑の党 (2)  アルスター統一党 (2)  プライド・カムリ (1)  無所属(英語版) (41)

中立派  クロスベンチャー (183)(2022年11月14日時点)
任期終身
歳費・報酬無報酬であるが、非課税の日当と経費が支払われる。
選挙
選挙制度非公選
選挙区改正Boundary Commissions
議事堂

イギリスロンドン
ウェストミンスター宮殿
ウェブサイト
UK Parliament - House of Lords

貴族院(きぞくいん、英語: House of Lords、略称:the Lords)は、イギリスの議会を構成する議院のひとつで、上院に相当する。

中世にイングランド議会から庶民院が分離したことで成立した。貴族によって構成される本院は、庶民院と異なり非公選かつ聖職貴族を除き終身任期制である。議会法制定以降は、立法機関としての権能は庶民院に劣後する。1999年以降は世襲貴族の議席が制限されており、一代貴族が議員の大半を占めている。かつては最高裁判所としての権能も有していたが、2009年に連合王国最高裁判所が新設されたことでその権能は喪失した。
歴史
貴族院の成立議会が庶民院と貴族院に分離する前の13世紀にプランタジネット朝イングランド王エドワード1世が召集した議会を描いた絵画。

イギリスの統治機関の多くは1066年のノルマン・コンクエスト後に創設されたイングランド王封建的臣下である直属受封者(英語版)(貴族)によって構成される国王諮問機関キュリア・レジス(国王裁判所の意[注釈 2])から分化したものである[3][4]。イギリスの議会であるパーラメント(Parliament of England)もその一つである。ジョン王が1215年に発布したマグナ・カルタ12条は国王はキュリア・レジスの大会議である全般諮問会議(commune consilium、パーラメントはこれの特定の会合として発足)の同意なく、課税してはならない旨を定めている[5]

パーラメントも初期には直属受封者のみで構成されていたが[5]、12世紀から13世紀にかけて陪審員制度の確立(代議制への萌芽)、地方自治体の発展に伴う封建勢力の後退、騎士や市民などの中流階級の勃興、国王と貴族の対立などが起こり[6]、そのような背景から13世紀にイングランド王はパーラメントに州や都市の代表を加えるようになった。これによってパーラメントは代議制議会の性格を有するようになった[7]

パーラメント(以降議会)が庶民院と貴族院に分離したのは、14世紀前期から中期頃と見られている。州代表の騎士と都市代表の市民が議会から分離して庶民院の実質を形成し、また下級聖職者が議会を去ったことで、議会残存部分(高位聖職者[注釈 3]、伯爵、男爵[注釈 4])が貴族院の実質を持つようになったのである[10][11]。14世紀末頃までには庶民院の構成はかなり明確となり、それに伴って貴族院も明瞭になっていった[12]

フランス旧領地を回復する戦費調達のためにイングランド王は、円滑な税の徴収を欲しており、それには議会の了解を得ることが必要であった。そのため国王は議会への譲歩を進め、その譲歩の一つが制定法だった。14世紀末までには両院は立法協賛権を課税協賛権と同様に慣例として確立した[13][14]

両院の力関係でいえば、もともとは貴族院の方が圧倒的に強く、庶民院はその副次的存在として「請願者(Petitioners)」に過ぎなかった[15][16]。しかし封建貢納が金銭化などで形骸化すると庶民院は納税者集会の性格を強めていき、国王も無視することができない存在に成長した。ランカスター朝ヘンリー4世の時代の1407年には税の問題については庶民院で先議することが決定され[17][18]、続くヘンリー5世の時代の1414年には法制定権上の庶民院と貴族院の同格性が確認されている[19]

議会の中心母体の一つに高級裁判所パーラメントがあったので、議会は当初より司法機能を有したが、その機能は庶民院より貴族院の方が強かった。特に14世紀末に庶民院が弾劾権(国王の大臣を貴族院に告発する権利)を確立するに及んで、司法権は貴族院にあり、庶民院にないことが明確化した。以降貴族院は、庶民院に弾劾された貴族・庶民を裁判する権利、重罪で告発された貴族を裁判する権利、そして下級裁判所の判決を覆すことができる最高裁判所としての権能を有するようになった[20]

初期のイングランド議会における貴族とは、直属受封者のうち、国王から直接に議会召集令状(writ of summons)を出され、それによって貴族領と認定された所領を所有する者のことであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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