貴族代表議員
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イギリスにおける貴族代表議員(きぞくだいひょうぎいん、英語: representative peer)は、スコットランド貴族およびアイルランド貴族からイギリスの貴族院に参加するために選ばれた者をいう。イングランド貴族グレートブリテン貴族連合王国貴族は1999年まで貴族院議員たる資格を全員が持っており、代表を選出するようなことはなかった。

貴族代表議員制度が導入されたのは合同法成立後の1707年のことである。イングランド王国スコットランド王国が統一され、グレートブリテン王国が成立した際、168人のイングランド貴族に対し、154人のスコットランド貴族が存在した[1]。イングランド貴族は、大勢のスコットランド貴族が貴族院になだれ込み、貴族院を支配してしまうことを恐れ、スコットランド貴族の中から少数の代表者を選び、選ばれた人物がスコットランドを代表するように取り決めを行った[1]。1801年1月にアイルランド王国との合同が行われグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立したときも、同様の取り決めが行われた。

スコットランドは貴族代表議員を16名選出する権利があり、アイルランドは28名選出する権利があった[2]。スコットランドで選出された貴族代表議員は1会期を務め、議会の解散のたびに新たに選出された、一方、アイルランドの貴族代表議員は終身制だった。1922年12月にアイルランドが自治領アイルランド自由国として実質的に独立したことにより、アイルランド貴族代表議員の選挙は終焉した(ただし、すでに選出されたアイルランド貴族代表議員は死去まで議席を維持した)。スコットランド貴族代表議員については1963年に全員が貴族院議員となる資格を得たことで、選挙を行う必要はなくなった。

1999年貴族院法により、貴族代表議員の制度が新しく導入されたことで、貴族院に議席を持つ世襲貴族は92名に制限された[3]
スコットランド「スコットランド貴族代表議員の一覧」も参照1707年合同法は1707年1月16日にスコットランド議会で、1707年3月19日にイングランド議会で批准された。

1707年合同法第22条と第23条に基づき、スコットランド貴族は16人の貴族代表議員を選抜する権利を持っていた[4][5]。スコットランド貴族代表議員の任期は1会期もしくは最大7年だったが、再選は許可されていた。議会が新しく招集されるとき、国王は宣言を出してスコットランドの貴族をホリールード宮殿に招集して、選挙を行う。選挙が行われる場所はホリールード宮殿のグレートギャラリー(Great Gallery)という、ヤコブ・デ・ウェット(英語版)によるファーガス・モー(英語版)からチャールズ2世までのスコットランド君主の肖像画が飾られている大部屋[6]であり、手順としてはまず選挙名簿管理長官(英語版)が貴族名簿を読み上げ、呼ばれた者はそれぞれ返事をする。続いて、選挙名簿管理長官は再び貴族名簿を読み上げ、呼ばれた者が自分の投票を公表する。その後、当選者の名前はロンドンにある国王書記官のもとに送られる[7]。貴族代表議員に空席が生じた場合も同じ手順で選挙が行われた[8]

スコットランド貴族代表議員選挙にはブロック投票制度が使用され、各貴族は埋めるべき席の数だけの投票を行う。しかし、この制度では貴族の人数が最も多い政党(通常は保守党)が支持度と不相応に多い議席を得て、それ以外の政党は1議席も得られないこともあった。選挙名簿管理長官は名簿読み上げのほかにも票を数える役割を果たしており、選挙名簿管理長官が発表する当選者リストは貴族代表議員が議会に登院するのに十分な証拠とされた。しかし、スコットランド貴族代表議員はそれ以外の貴族と違い、議会召集令状を受け取ることはなかった[9]スコットランドの貴族代表議員はホリールード宮殿で選ばれた。

スコットランド貴族の貴族院における地位と権利は18世紀中は明確ではなかった。例えば、スコットランド貴族の第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトンは1711年にグレートブリテン貴族ブランドン公爵に叙されたが、彼が貴族院に登院しようとしたときは入場を拒否された。スコットランド貴族はグレートブリテン貴族の爵位を保有している場合でも、スコットランド貴族代表議員に選出されていない限りは登院できないと、貴族院が裁定を下したのである[10]。このような裁定を下した理由は1707年の合同法で貴族院におけるスコットランド貴族を16人より多くも少なくもないと規定したためとした[11]。しかし、貴族院は1782年にこの決定を覆し[10]、年齢などの条件さえ満たせば、スコットランド貴族であるかどうかにかかわらず、いかなる人物でも国王によって貴族院を許可されうるとした[11]

1963年貴族法により、貴族院の議席を持つ権利が全てのスコットランド貴族に与えられたため、スコットランド貴族代表議員選挙の制度も終わりを告げた[12]1999年貴族院法により、スコットランド貴族はグレートブリテンやイングランドの世襲貴族と同じく、貴族院において自動的に議席を得る権利を失った。貴族院法案が議論されている際には、この提案は合同条約(英語版)に違反するものではないかと言う質問があがった[13]。この質問がなされた背景には下記の論点がある。イングランドとスコットランドの合同以前、スコットランド王国議会は合同に条件をつける権利があり、そのときにつけられた条件の1つにウェストミンスターの両議会(庶民院と貴族院)でスコットランドの代表が含まれることへの保証があった。そのため、スコットランド貴族全員に貴族院の議席を与えた1963年貴族院法は合同条約第22条に違反していないとした(スコットランドの議員が少なくとも16人いれば第22条に反しないため)[13][14]。さらに、第22条の要件を無効にする唯一の方法はイングランドとスコットランドの合同解消であり[14]、貴族院はそれを望んでいないとした[12]

この意見に対し、政府の法律顧問は異なる見解を持っていた。政府の法律顧問の見解によると、1963年貴族法は合同条約のうち貴族代表議員選挙に関する条項を明確に廃止しており、当時の議会の議論ではこの廃止について疑問を持つ者はいなかった。第22条が実際に廃止されていたか、廃止されたとみなされたため、貴族院法案は合同条約のどの条項にも反していないこととなる。また、政府からは第22条がいわゆる「堅固に保護された条項」ではないため、廃止が可能であるとの主張がなされた。「堅固に保護された条項」の例としては、イングランドとスコットランドが「永遠」に合同した[15]、スコットランド民事控訴院(英語版)は「現在と同じくスコットランド国内で永久に」存在する[16]スコットランド国教会の確立が「実質的に、不可変に保証された」[17]、といったものがあるが、第22条には同条項を「基礎的、または永久に不可変」にする語彙が含まれていなかった[18]

政府は更に次の点を指摘した。たとえスコットランド貴族の選挙が「堅固に保護された」としても、議会は議会主権というドクトリンに基づき条項を改正することができる。例えば、スコットランド国教会の地位は「不可変に」保証されたものの、議会は1853年スコットランド大学法で教授への就任前に信仰を表明するという要件を廃止した[19]。アイルランドに至ってはアイルランドとの合同法でアイルランド国教会が「堅固に保護された条項」で確立されたにもかかわらず、アイルランド国教会は1869年に解体された[20][21]。また、グレートブリテン王国アイルランド王国の合同は「永久」とされたが、アイルランドの大半の地域は1922年12月のアイルランド自由国成立で合同を解消した[22]


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