貴乃花光司
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「貴乃花」はこの項目へ転送されています。貴乃花光司の父で一時期「貴乃花」の四股名だった大相撲力士については「貴ノ花利彰」をご覧ください。

貴乃花 光司


基礎情報
四股名貴花田 光司→貴ノ花 光司→貴乃花 光司
本名花田 光司
愛称貴、コウジ、平成の大横綱
生年月日 (1972-08-12) 1972年8月12日(51歳)
出身東京都中野区
身長185cm
体重161kg(現役時)
73kg(2016年)
BMI47.04(現役時)
21.30(2016年)
所属部屋藤島部屋二子山部屋
得意技突っ張り、右四つ、左四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位第65代横綱
生涯戦歴794勝262敗201休(90場所)
幕内戦歴701勝217敗201休(75場所)
優勝幕内最高優勝22回
幕下優勝2回
殊勲賞4回
敢闘賞2回
技能賞3回
データ
初土俵1988年3月場所[1]
入幕1990年5月場所[1]
引退2003年1月場所[1]
引退後一代年寄・貴乃花部屋師匠
他の活動絵本作家、タレント
備考
金星1個(千代の富士1個)
2019年7月30日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

貴乃花 光司(たかのはな こうじ、1972年昭和47年〉8月12日 - )は、東京都中野区出身の二子山部屋(入門時は藤島部屋)に所属した元大相撲力士で第65代横綱

本名は花田 光司(はなだ こうじ)[2]。愛称は「貴」、「コウジ」。相撲協会退職後は本名や元 貴乃花親方・貴乃花氏・貴乃花さんと表記されることが多い。

引退のとき現役時代の功績に対して一代年寄貴乃花が認められ、貴乃花部屋の師匠を務めた。日本相撲協会では2010年に理事に当選以来、相撲教習所所長、審判部長、地方場所部長(大阪)、総合企画部長、巡業部長を歴任した[注釈 1]が、2018年10月に退職した[3]

現在は相撲の普及活動を目的とする一般社団法人貴乃花道場の理事を務めており[4]、「貴乃花光司」としてのタレント・絵本作家の活動は[5]、2023年9月より新たに貴乃花事務所(個人事務所)として新体制を取っている。
人物

1972年昭和47年)、東京都杉並区阿佐ヶ谷に生まれ同中野区で育つ[6][7]。現役時代、取組前の場内アナウンスでは中野区を出身地としていた。

父は貴ノ花利彰(11代二子山)、母は藤田紀子、兄は花田虎上(三代目若乃花)で、初代若乃花(10代二子山)は伯父(父の兄)。二代目若乃花(18代間垣)はかつて義理のいとこ(伯父の娘婿)だった。

2018年に離婚した元妻の河野景子[注釈 2][8]との間に1男2女があり、長男は花田優一[9]、次女は白河れい(本名:花田晃帆)[10]

血液型はO型[11]。元々は右利きだったが、長年の相撲の影響で右手に痺れが残ってしまい、今は左手で箸やペンを持つようになっている[12]

現在は大型自動二輪免許を取得し、ハーレーダビッドソンに乗っていることを明かしている[13]

好きなアーティストは倉木麻衣
経歴
少年相撲から中学相撲

当人や周囲の回想によれば、相撲に身を入れ始めたのは1981年の父の現役引退が契機だったという。

「自分が将来、相撲の世界に入って、父が果たせなかった夢を実現させるんだ」という思いで稽古に打ち込み[14]、1982年、わんぱく相撲の全国大会で優勝、わんぱく横綱(小学4年生)となった[15]。わんぱく横綱としての土俵入りを入れれば、蔵前国技館新両国国技館の両方で横綱土俵入りを行ったひとりであるということになる。

父を慕って部屋によく遊びにきていた鎌苅忠茂少年(後の貴闘力)には兄の勝ともどもかわいがられ、部屋の稽古場で相撲を取ることもあったという。

明大中野中に進学し、同相撲部で武井美男監督から廻しの切り方などの技術面の指導を受けた。このことが、のちの躍進に大きく寄与したとされている。
大相撲入門

1988年、15歳で入門。当初父親は実子を弟子にすることを嫌がり他の部屋へ預けることとしたが、紆余曲折の上、結局藤島部屋に所属することとなった[16]

入門当時からその優れた素質が話題となっており、新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と、新弟子検査担当の親方が驚嘆するほど体作りの基礎ができていたという。四股名貴花田として初土俵を踏み、前評判に違わぬ相撲で数々の最年少記録を打ち立てた[1]

親方の息子であることからやっかむ者もあり、部屋の番付上位の力士が下位の力士に指示を出して昼寝を妨害することもあったが、トイレにダンベルを持ち込んで黙々と自らを鍛えた[14]。母の藤田紀子は「それに打ち勝つことが稽古より大変なんです」と話している[17]

1989年11月場所、17歳2か月で新十両に昇進[注釈 3]。出世に髪の伸びる早さが追いつかなかったため大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がった。名大関貴ノ花の息子として兄とともに入門したことは、マスメディアを通じて国民に広く報じられ、入幕前から相撲ファンの枠を超えた注目を集めていた[14]
入幕

1990年5月場所、17歳8か月で新入幕。場所直前に足の親指の靭帯を切る負傷をしたため4勝11敗と大きく負け越し十両に落ちたが[18]、11月場所で幕内に復帰した[6]。その後二場所は小幅の勝ち越し、負け越しが続きやや勢いが減速したものの、東前頭13枚目に下がった1991年3月場所では27年ぶりとなる平幕での初日から11連勝を記録。その後小錦旭富士らに敗れ、幕内優勝はならずも12勝3敗の好成績を挙げ、敢闘賞、技能賞をダブル受賞した。

西前頭筆頭まで番付を上げた1991年5月場所、かつて父とも対戦した千代の富士といきなり初日に取組が組まれた。伯父の二子山理事長は「何回、"残った、残った"の声が聞かれるか楽しみだ」と甥の貴花田が横綱にどれだけ相撲を取らせてもらえるかに注目していたが、結果は貴花田の完勝で大相撲史上最年少(18歳9か月)の金星を獲得[19]。千代の富士は同場所の3日目、貴闘力とったりで敗れた取組を最後に現役引退。結果的に同場所初日の貴花田が千代の富士を下したのを機に引導を渡したことで、次代の第一人者候補としての評価を固めていく。7月場所は小結、9月場所は関脇に昇進した。

弟にわずかに遅れて入幕した兄若花田とともに活躍した頃に起こった平成初期の大相撲ブームは「若貴フィーバー」と呼ばれた。


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