貴ノ浪貞博
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貴ノ浪貞博

音羽山親方(2015年3月)
基礎情報
四股名貴ノ浪 貞博
本名浪岡 貞博
愛称貴にょ浪[1]、浪大関、浪関
生年月日1971年10月27日
没年月日 (2015-06-20) 2015年6月20日(43歳没)
出身青森県三沢市
身長196cm
体重175kg
BMI45.55
所属部屋藤島部屋→二子山部屋→貴乃花部屋
得意技左四つ、寄り、上手投げ極め出し河津掛け
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴777勝559敗13休(104場所)
幕内戦歴647勝473敗8休(76場所)
優勝幕内最高優勝2回
敢闘賞3回
データ
初土俵1987年3月場所
入幕1991年11月場所
引退2004年5月場所
引退後音羽山親方
趣味釣り
備考
金星2個(武蔵丸2個)
2019年3月24日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

貴ノ浪 貞博(たかのなみ さだひろ、1971年10月27日 - 2015年6月20日[2])は、青森県三沢市出身で藤島部屋、二子山部屋、貴乃花部屋に所属した大相撲力士。本名は浪岡 貞博(なみおか ただひろ)。最高位は東大関
略歴
貴ノ花と浪岡で「貴ノ浪」

1971年10月27日青森県三沢市で生まれる。三沢市立第二中学校時代に藤島から勧誘され、当初は高校進学を考えていたものの、両親が貴ノ花を贔屓にしていたこともあって入門を決意、1987年(昭和62年)3月場所で初土俵を踏んだ。四股名は本名の「浪岡」だった。

1991年(平成3年)3月場所、新十両に昇進する。中卒入門の力士で、4年で十両昇進は早い出世だが、大器と期待する藤島から「1年遅い」と叱責された。藤島の現役名「貴ノ花」と本名を組み合わせた「貴ノ浪」と命名された。藤島の命名とされていたが、藤島の夫人だった藤田紀子によれば貴ノ浪が急逝した際に「部屋の弟子の四股名は女将だった自分が命名していたが、貴ノ浪だけは師匠(藤島)が自ら命名した」と語っている[3]。また、四股名の下の読みは「さだひろ」だが、本名は「ただひろ」と読む[注 1][注 2][4]

1991年(平成3年)9月場所では大善尊太と12勝3敗同士で十両優勝を争い、敗れたものの、同年11月場所はその大善と「高田川部屋三人衆」の一人・鬼雷砲良蔵、そして終生のライバルになる武蔵丸光洋と同期で新入幕を果たす。この場所は初日から7連勝を記録し、中日で勝ち越す前から新入幕力士による幕内最高優勝を期待された。しかしその中日に水戸泉政人に敗れて連勝が止まり、9日目には優勝争いの筆頭だった琴錦功宗を倒して勝ち越すものの、残り6日間は全て敗れて8勝7敗で終わった。それでも新入幕力士が初日から7連勝を記録したことは周囲に強烈な印象を残し、「未完の大器」とされて注目を浴びる。

注目を浴びた貴ノ浪だったがその後は前頭中位に留まって低迷した。1993年(平成5年)3月場所を前頭筆頭で迎えると9勝6敗と勝ち越し、同年5月場所で小結に昇進した。この場所で10勝5敗の好成績を挙げて自身初の三賞・敢闘賞を受賞すると、同年7月場所では関脇に昇進して9勝6敗、9月場所も10勝5敗を挙げる活躍を見せ、将来的に大関昇進も見える成績を残す。11月場所では12勝3敗の好成績を挙げて大関昇進にさらに近付いたが、「土俵際に下がりながら勝つ相撲(引いて叩き込む)が多すぎて内容が悪過ぎる」という理由で三賞獲得はならなかった。
大関昇進?同部屋同士の優勝決定戦

1994年(平成6年)1月場所は、前年まで3場所連続で勝ち越して、前場所は12勝を挙げる活躍を見せたことから自身初の大関取りの場所となった。しかし二子山部屋には貴乃花光司若乃花勝の2大関がいたため、貴ノ浪には同じく大関取りの場所としていた武蔵丸光洋よりも好成績を残すことが求められた。7日目に横綱・曙太郎との対戦を迎えると、これまで対横綱戦未勝利だった貴ノ浪は、本人曰く「強烈な突っ張りの威力を逸らすため」にあえて斜めに仕切る奇策に出る。これが効いたのか河津掛けでようやく対横綱戦初勝利を挙げ、勢いそのままにこの場所を13勝2敗で終えると二度目の敢闘賞を受賞すると共に、武蔵丸と同時に大関昇進を果たした[4]。大関の同時昇進は1977年(昭和52年)1月場所後の若三杉壽人(新大関)・魁傑將晃(再昇進)以来17年ぶり、新大関2名の同時昇進は1972年(昭和47年)9月場所後の貴ノ花利彰輪島大士以来22年ぶりだった。昇進伝達式での口上は若貴兄弟と同様に四字熟語の「勇往邁進」を用いていた。新大関として迎えた3月場所は12勝3敗で、曙と貴闘力忠茂が並んだことで優勝決定戦に進出した。貴闘力とは同部屋のために本割での対戦が無かったが、優勝決定巴戦では貴闘力に勝利したものの曙には敗れ、続けて貴闘力も曙に敗れたことで、幕内最高優勝は曙にさらわれてしまった[4]

大関・貴ノ浪はそれ以降も安定した成績を残す。特に1996年(平成8年)1月場所では14勝1敗の好成績を残し、横綱・貴乃花光司との同部屋同士による優勝決定戦では曙戦で繰り出した河津掛けで制して、悲願の幕内最高優勝を果たした。1997年(平成9年)11月場所でも14勝1敗でまたも貴乃花と同部屋同士による優勝決定戦を上手投げで下し、11場所ぶり二度目の幕内最高優勝を果たした。続く場所が綱取りとなったが11勝、10勝に留まり、大関での2場所連続優勝を達成することが出来ず、惜しくも綱には届かなかった[4]。綱取りが叶わなかった大関・貴ノ浪だったが、その一方で1995年(平成7年)5月場所と1997年(平成9年)1月場所、1999年(平成11年)1月場所を全て6勝9敗と皆勤負け越しを記録したり、勝ち越しても8?9勝止まりと大関らしからぬ成績を残し、低迷した時期もあった。特に剣晃敏志を苦手(通算9勝9敗)としており、剣晃に敗れたことで優勝を逃す場面も見られた。それでも角番を脱出した場所では大半が終盤戦まで優勝争いに加わる活躍を見せており、1999年(平成11年)3月場所は角番で迎えたが12勝3敗の好成績を残して角番を脱出しただけでなく、11日目には通算5場所目というスピード出世で新入幕を果たした雅山哲士に勝利して雅山の二桁勝利を阻む(本人曰く「丁髷の結えないヤツには負けられない(当時、雅山はスピード出世で髷が追い付かず、髷の無い姿で入幕していた[5])」など、大関としての貫禄を示す場面も見られた。
現役晩年?現役引退

1999年(平成11年)9月場所の途中に足を痛め、新入幕から引退までの期間で唯一の休場を経験する。これによって同年11月場所が角番となり、この場所で優勝争いをしていた大関・出島を12日目に破るなど意地を見せたが、そこから3連敗で6勝9敗で終えた事でついに35場所務めていた大関から陥落することが決まった。それでも2000年(平成12年)1月場所では10勝挙げ、特例での大関復帰が認められた。これは1969年(昭和44年)7月場所以降に制定された「大関特例復帰制度」から、1976年(昭和51年)7月場所の三重ノ海剛司以来24年ぶり二度目の出来事だった。しかし大関に復帰した同年3月場所は千秋楽で敗れたことで7勝8敗となり、角番で迎えた同年5月場所も6勝9敗と負け越したことで再び関脇に陥落となった。7月場所も1横綱3大関に勝ったにも関わらず中盤5連敗が響き7勝8敗と負け越したことで二度目の大関特例復帰はならなかった。大関在位37場所は二子山を始め、北天佑勝彦小錦八十吉に続く歴代4位だった[注 3]。大関として挙げた通算353勝は、当時歴代3位[注 4]であるとともに、後に横綱へ昇進した武蔵丸光洋の大関時代と奇しくも同数だった。

2000年(平成12年)9月場所は7年ぶりの小結で迎えて9勝を挙げ、翌場所で関脇に復帰するが、同年11月場所は初日からの8連敗で中日負越しが決まり、21世紀最初の場所となった2001年(平成13年)1月場所は1993年(平成5年)3月場所以来約8年ぶりとなる平幕に陥落となった。しかし2001年7月場所は優勝した大関・魁皇に勝ったり、2001年11月場所は10日目まで9勝1敗と一時優勝争いに加わったり、2002年7月場所は初日から7連勝し大関取りで9連勝していた朝青龍に勝ったり、2002年9月場所と11月場所?2003年7月場所では横綱・武蔵丸に対戦機会3連勝するなど、21世紀に入ってからも前頭上位で好成績を残しては小結に復帰するが、三役で勝ち越せずに平幕へ陥落するなど、往年の大関時代の力強さは徐々に失われていった。


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