日本の政治家財部 彪たからべ たけし
生年月日1867年5月10日
(慶応3年4月7日)
出生地 日本・日向国都城
(現・宮崎県都城市)
没年月日 (1949-01-13) 1949年1月13日(81歳没)
死没地 日本・東京都目黒区
出身校海軍兵学校15期
前職海軍軍人
称号 海軍大将
従二位
勲一等旭日桐花大綬章
功三級金鵄勲章
配偶者財部いね[1]
親族山本権兵衛(岳父)
第9・11・13代 海軍大臣
内閣濱口内閣
在任期間1929年7月2日 - 1930年10月3日
内閣加藤高明内閣
第1次若槻内閣
在任期間1924年6月11日 - 1927年4月20日
内閣加藤友三郎内閣
第2次山本内閣
在任期間1923年5月15日 - 1924年1月7日
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財部 彪(たからべ たけし、1867年5月10日(慶応3年4月7日[1]) - 1949年(昭和24年)1月13日[1])は、日本の海軍軍人、政治家。海兵15期首席[1][2][注釈 1]。
最終階級は海軍大将。栄典は従二位勲一等功三級。宮崎県都城市出身。
妻の「いね」は、山本権兵衛(海軍大将)の娘[1]。 攻玉社を経て明治22年(1889年)、海軍兵学校15期を首席で卒業。 明治26年(1893年)、日清戦争で出征。日露戦争では、大本営作戦参謀を務める。 加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、第2次山本内閣、加藤高明内閣、第1次若槻内閣、濱口内閣の4内閣において海相を務める。 昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮会議において若槻禮次郎らとともに全権となり、同条約に調印した。 しかし海軍軍令部はこれに著しく不満で、犬養毅や鳩山一郎らが率いる政友会と協力し、同会議における浜口内閣の行為は統帥権干犯にあたると攻撃した(統帥権干犯問題)。財部は、同条約が批准された翌日に海相を辞任することとなった。 1932年(昭和7年)4月[1]、海軍大将の年齢満限により[4]、後備役となり現役を去った[1]。 昭和24年(1949年)1月13日、肝臓がんのため東京都目黒区駒場の自宅で死去[5]。81歳没。墓所は青山霊園(1イ2-13)。 帝国海軍の人事制度では、海軍兵学校の卒業席次を基礎とするハンモックナンバー(兵学校同期生間の先任順位)が大きく影響し、兵学校同期生の間で進級や補職に差がついた。ただし、兵学校の下の期のクラスヘッド(最先任者)が、前の期のクラスヘッドを超えて進級することはなかった[7]。詳細は「ハンモックナンバー」を参照 また、皇族の海軍士官は例外であった。皇族の海軍士官は、大佐への進級まではクラスヘッドと同時に、少将への進級からはクラスヘッドを超えて進級した[8](例外もあった[9])。 財部は兵学校15期クラスヘッドであり[2]、クラスメートの広瀬武夫が、財部の岳父となる山本権兵衛に「財部はあんたの娘を貰わなくても出世できる男だ」[6]と言ったように、最初から出世が約束されていたとも言える。
概要
人物
妻の「いね」は山本権兵衛の娘である[1]。財部は、兵学校15期のクラスメートである広瀬武夫と、貴顕の娘を娶らない、と互いに約束していた[6]。この縁談が持ち上がると、広瀬は山本の家に乗り込み「財部はあんたの娘を貰わなくても出世できる男だ」[6]と山本に談じ込んだが、山本の妻から「広瀬さん、あたしの娘は、権兵衛の娘であるがゆえに、いい人と結婚はできないのでしょうか」[6]と泣きつかれて矛を収めた[6]。
1930年(昭和5年)に開かれたロンドン海軍軍縮会議の際、日本政府全権を務めた。この軍縮会議での財部らの行動は戦後の歴史評論家をはじめ、評価する声が多いが、当時の世論では非国民扱いされた。会議後に欧州旅行をした事を非難したマスコミ達による誹謗も加わり財部らが帰国した際、東京駅や丸の内のオフィス街には財部らを罵倒する群衆が殺到し「売国奴財部を葬れ」「英米の前に拝跪して国を売り君命を辱めたる降将財部。速やかに自決して罪を謝せ」などと書かれた檄文が何百枚も撒き散らされたという。
国立国会図書館「憲政資料室」に日記などが保管され、その複写文書が一般に供されている。そのうち海軍次官時代のものは山川出版社より、近代日本史料選書12-1・2として公刊されている。
同じ海軍の山梨勝之進や野村吉三郎、永野修身らと同様に小原國芳の理解者であり、支援者として知られる。玉川学園の顧問なども務めた。
「財部親王」